セミプロ

絵画は副業なのだろうか。これは修辞疑問というやつで、答えがわかってるのに聞くふりをして、文章にアクセントをつけるテクニックです。

絵が売れた。小さな絵で俺はそんなに気に入ってなかった絵なんだけれど、昨日、今持ってる絵を一斉値下げしたところ、それ子がお嫁に行ってしまった。

正直三桁の値段なのでまるっきり赤字なんだけど、材料費もでないぐらい。赤字は副業とは言えない。趣味だね。趣味でも少しばかりのお金がもらえるならば、それにこしたことはないし、材料費だってバカにならないから、それが返ってくるだけでも、本当は嬉しい。

それに家に置いていても、俺と嫁と子供が見るだけで、家族は俺の描く絵に無関心だから、安価でもその子を欲しがっているところに嫁に出すのは、その子が愛される機会が増えて、いいことをしたような、ボランティアをしたような気分になる。

俺のやってるフリマサイトには閲覧数というまた数字のアホンダラが表示されてて、全然人気がなかった作品だから、まさか売れるとは思ってなくて、世の中は運と出会いが大事なのねと、ひとりごちた

 

読書感想文らしきもの『リンカーン・ライム』

リンカーン・ライムシリーズの『バーニング・ワイヤー』を読了した。この間ライムはC4だとこのブログで書いた。それでも小説の中で、苦悶、苦闘しながら必死に生きていこうという姿勢に共感し心打たれるみたいなことを、書いたような気がする。

その時俺は薬の副作用でもう一つ病気を抱えそうだったので気が滅入っていて、ライムに感情移入したのだ。

しかしなんと『バーニング・ワイヤー』の最後でライムは、脊椎損傷患者が受ける最新医療を受け、手術した。

俺は少しびっくりしてしまった。このままライムはずっとC4で病気とともに戦うと、思っていたから、いや手術することももちろん病気との戦いではあるのだけれど、リハビリで少し回復することはあっても、最新テクノロジーで手が動くようになるなんて思っていなかったから、なんていうのだろう、嫉妬をしたのだと思う。

共感して感情移入してたから、手術で良くなったライムを羨ましく思ったのだろう。俺は悪くなる一方なのに。

小説の主人公に共感して嫉妬してもしょうがない。所詮はフィクションなんだから。わかってはいるのだがね。俺だって魔法の薬があって、病気を治してくれるのなら、どんなにいいことだろうと、そういうフィクションでも書こうか。それともそんな甘い話は書かないで、とことん病魔に襲われる悲しい話でも書こうか。

僕の師匠である中島らもは現実は悲しいことばかりだからせめて、フィクションぐらいは「明るい楽しい話がいい」とどこかで綴っていた。

楽しい話ばかりを書ければいいのだけれど、ついついグチをこぼす器の小さい自分を発見してしまうのだ。

不採用

いつも聞いているラジオに絵を送った。そのラジオを昨日ラジコでフルで聞いた。

あるコーナーに送ったのだけど、違うコーナーで採用されるかもと思い、少しドキドキしながら聞いていたが、そんな気配すらなく、まもなく不採用となった。

ダメか。なかなか、ラジオに採用してもらう絵を描くのも、難しいね。

また気に入った絵が描けたら、送ってみよう。採用されるまで、送ってみよう。

しょうがない…

久しぶりに

今週のお題「好きな街」

特別好きな街はない。たまに行く京都の雰囲気は好きだが、また住むのとは違うのかもしれない。都会人の常として、田舎に憧れはある。それに今はどこにいても、離島とかじゃない限りネットでなんでも手に入る。だからお金があれば田舎暮らしでも不便じゃないんだろうと、想像したりする。都会の喧騒がもう鬱陶しくて仕方がない。病気のせいだろうか。

好きな街は特にないけれど一つ、行ったことがないのに詳しい街がある。ボストン。俺は外国には行ったことがないが、ボストンの地理に詳しい。もしくは詳しかったと言うべきか。

俺はロバート・B・パーカーの「スペンサー」シリーズのファンだった。俺が海外ミステリ、ハードボイルドファンなのはこの本がきっかけだ。チャールズリバーが街の中心部を流れており、ボストンコモン、バックベイ、フェンウェイパークがあって、レッドソックスセルティックホームチームで、チャールズリバーの向こう側にはMIT(マサチューセッツ工科大学)とケンブリッジ大学がある。街を横切る通りはある程度までは頭文字がアルファベット順になっていたはずだ。

スペンサーやホークがこの街で色々な出来事を解決するのだが、いくつもの建物、公園、通りが丹念に書き込まれていて、俺はそう当時ハヤカワから刊行されていた「スペンサーのボストン」という本を買って、ボストンという街並みを憧れと共に眺めていた。

25年以上も前の話だ。その当時俺は学生で、社会人になればボストンに行く機会もあるだろうと思っていたが、それは実現しそうにない。またあれから街並みも少しは変わっただろう。ロバート・B・パーカーも鬼籍に入った。

俺がこんなにも頑固で、融通がきかないのは、おそらくスペンサーになりたくて、しょうがないからなんだろうね。

もしあと15年生きながらえて、無事定年を迎えることができたら、行ってもいいかもしれない。

恋は病

恋は病のようなもの

熱くなって冷めてしまって

次から次へと流行りにかかる

突然どこからともなく恋が現れて

身悶えし夜も眠れぬぐらいに

思いつめるばかりで

ただ時が過ぎていくのを

待つばかりなのだから

病だとしても仕方がない

持病のせいで恋が二つに増えそうで

考えることが多くなる

過ぎ去りし日々に想いを馳せても

恋多き人間だったことは一度もない

病が蝕むのは体だけじゃなく

心なのだ

ドキドキが止まらない

痺れが止まらない

ソラナックスを飲む

だけど恋だから薬じゃどうも

治りそうにない

少なくとも今日は

病のままだろう

 

C4

C4とは第四頸椎損傷した四肢麻痺患者を指す。と言うか今読んでいる小説の主人公リンカーン・ライムがC4で、首から下は右手の薬指しか動かなかった。

最初に出てきたときライムは自殺するつもりだった。しかし四肢麻痺患者は自殺すら簡単にできない。物理的に。その後小説の中でいろいろなことが起こってライムは、犯罪学者として生き続けることになり、相棒も恋人もできた。

俺は健常者ではない。かといって障害者でもない。少々不便だができないことは少ししかない、目の不自由な人間だ。しかし普通の人と同じ事ができるわけではない。ここで言う普通の人と言うのがまたくせ者で、だいたい世の中に普通の人などいない。何かしら持病なり、障害なり、痛みを抱えて生きている。

リンカーン・ライムは食事も排泄も自分ではできない。介護士のトムがいて、やってもらわなきゃならない。他にもいろいろあるだろうが、小説の中でそういうことに言及するシーンは少ない。

仕事をし、愛する人々がいるだけで、自分は生きてる価値、意味があるという。事実そうなのだろう。自分にできることをする。それは障害者も健常者もかわりがない。だから自分ができないことについて、あれこれくよくよ考えても仕方がない。

今日、眼圧が高いと医者に言われた。俺はステロイドを長期間多量に服用している。ステロイド緑内障の疑いがあると言われた。今すぐどうこう言うわけじゃないが、今まで眼科の診察は半年に一回だったが次は3ヶ月後になった。俺は少し不安になり、副作用でまた目が見えなくなると動揺している。

もちろん発病してから6,7年経った。徐々に老いてきている。老眼も進んできている。目が良くなる要素は無いわけだけれど、たどり着く先が見えないのはやはり、怖いとしか言いようがない。

今読んでいる小説の中でライムは発作を起こした。自律神経異常による血圧の異常上昇だ。死ぬ場合もあるという。もちろんライムは主人公だから助かった。だけどもせっかく少しましになりかけていた麻痺が広がったことに、怖じ気づいていた。

すべての病人はこれ以上病気が悪くなることがとにかく最悪の出来事なのだ。そういう意味では俺のステロイド緑内障も俺の心に巣くった腫瘍のようなものだ。

ゼロの記録

こんなに長い間ほぼ毎日ブログを更新しているのに、もしくは更新しているからかもしれないが、900件ぐらい記事があるらしいけれど、昨日はアクセス数がゼロだった。

特に何か思うことはない。誰も彼も何か書いていて、それで俺の文章を好き好んで読もうというのは、相当物好きというか、有難い人々なので、俺はこの小さな世界でも孤独というか、マイノリティというか、どうでもいい存在なのだとヒシと実感する。

それが寂しいとか悲しいとか憤ってるとかじゃなく、俺は自分が何かしら発信するばかりで、あまり他人の書いたものに書き込んだりしないからだろうとも思う。

ネットでもコミュ障なんだろうか…。

それでも時々は誰かが訪れて、何かしら読んで何かしら思って去っていくのだ。書いたものには俺は責任を取る。なるべく。

新規顧客を得るために、今週のお題でものぞいてみようか…。