銀行に行く 3
俺はまた性懲りも無く、銀行に来て、あれやこれやと相談している。どうしてしまったんだ。
昨日はグスタフ・クリムトの特集を見て、芸術家気取りだったのに。貧乏で頭でっかちの次男坊っていうのは、どうしようもない。
銀行の若い女性行員さんと話す。なんしか、元手がないから、とりあえず積み立てから始めようということになった。積み立てNISAを嫁と俺で違うファンドでやろうってことになった。俺はもうちょっと値動きがあるものが良かったんだけど、最近は株価が下落して勝負するには難しいので、とりあえず積み立てで半年なり一年なり様子見て考えよう、という話になった。
不労所得というのは、いつの世も人をダメにする。それはわかってる。俺は今朝も10キロ走ってきた。俺は基本努力の人だ。
だけどバカだから努力する方向を間違ってしまうのだ。一生懸命働けば自分のためにもなるし、体も健康になるはずだ。まともな世の中ならば。世の中がまともじゃないから働いても働いても楽な暮らしはできないし、頭が焦げたようにおかしくなるし、誰も彼もが文句を言ってくるし、面倒を抱え込む。
人の欲望にはきりがない。俺の欲望も際限がないのかもしれん。俺は平和な心の持ち主で、ゆっくりした暮らしがしたいのだ。そういう暮らしを手に入れるのは、なぜか大金がいるのだ。おかしいと思う。
心の平安というのは、自分の内側にあってそれは富めるものにも貧乏なものにも同様に、手に入れる機会があるはずだ。
資金運用する人たちの銀行の待遇って言うのがなんとなくすごい。行員さんの働いている中に入って、トイレを借りた。三階にあってトイレの前まで若くてきれいな行員さんが付いてきてくれて、ほとんど護送中の犯人と同じ扱いだった。トイレの前には恐ろしくぶ厚い扉が開いていて、おおこれはこの銀行の金庫かもと思ったけれど、折れもバカじゃないので、だまってトイレに行って黙って帰ってきた。昼も食わず3時を回りそうだったので、一回休憩をとって3時回って、銀行に戻ってきた。約束があるといってインターフォンを押し自分の名前と相手の名前を言った。入れてくれた。なんかすげえ。
利回り、利率、海外株式、難しそうなことは、また今度勉強します。
天然で
今週のお題「バレンタインデー」
バレンタインデーですね。おいしいチョコは大好きなんです。世間ではいろいろなチョコが売られていて、どれを食べようか迷ったり、いつもの定番にしようかとも思ったりで、なかなか決めきれません。
今年はいつものピエールルドンとローゼンシュタインというところのチョコを買いました。はたしてお味はどうなのでしょう。ビール好きの僕はビールのトリュフに魅了されて買ってしまいましたが。楽しみにしています。
毎年おいしくないものも含めていろいろ買っているわけだけど、カカオのコクとか甘みと酸味のバランスがどうとか、そんなうんちくは抜きにして、中のガナッシュの滑らかさだけでも、うまいとかまずいとかそんな話になるわけで、チョコレートの奥深さを感じたりします。
最近はいただくこともめっきり減ってしまって、社会からもうすぐきえてしまうんじゃないかと、苦悶してるわけですが、お返しのことを考えるともう、いいんじゃないかとも思えるわけで、ただ菓子業界もこの先チョコレート一本でやっていくには、だんだん難しくなっていくのかなと思います。
一般論ばかりでごめんなさい。俺の個人的なバレンタインデーの思い出はあんまりない。俺は天然で空気が読めないから、したらあかんところで、したらあかんことをするのだ。大きなチョコをもらって、ひと月がかりでやっとこさ食べて、もらった人にやっと食べたみたいな話をしたら、次の年からくれなくなったよ。だめだこりゃ。
アノニマス
アノニマスとは匿名という意味で、僕が知ったのはマット・スカダーがAAのことをアルコホリック・アノニマスと言っていたからだ。AAとはアルコール中毒の人を更正させるための、団体で世界各地にある。
ヒエロニムス・ボッシュというLAの刑事は自分の名前の読み方を説明するときに、アノニマスと同じだと言っていた。どちらも俺の好きなハードボイルドの小説で、ヒエロニムス・ボッシュは中世ドイツの画家と同じ名前だ。
「快楽の園」という代表作が小説の中にも出てきて、面白かった。
えっと、このブログはアノニマス、匿名で書き手である俺は簡単にはわからないようになっている。俺は簡単に他人を誹謗中傷したりする人間ではないが、それでも匿名性にあぐらをかいて、批判めいたことを書いたりすることもある。
野球選手の奥さんが中傷された件で、中傷した匿名の相手を特定し訴えるそうだ。いいことだ。世の中には意味もなく悪口、妬み、嫉みが書き込まれていて、それが本当か嘘かはどうでもよくて、ただアクセス数や再生回数が増えることで収入が入ってくる人たちの、炎上商売を助長しているのだと思う。
かってのテレビ番組も視聴率という怪物に左右されて、無茶な番組づくりをしていたみたいだが、そんなこんなでテレビは衰退してしまった。広告収入という怪物は、手段を選ばない。有名性だけが重要なのだ。
今度はネットだ。この俺が自由に全世界に向かって好き勝手なことを言えるというのは、素晴らしいと思える部分もあるが、反面とても恐ろしいということもある。
知らず知らずのウチに誰かを傷つけていることもあるだろう。最近はすぐにグチを書いてしまう。楽しい話が思い出せないぐらいだ。ヤダ、ヤダ。
昔、らもさんのエッセイを読んで育った。面白い話しがたくさん書いてあった。とくに面白かったのは、身内、友達の失敗談や、へんてこな話だった。エッセイストは身内もネタにして、面白い話を書くもんだなと思った。
作家になれば匿名ではいられない。らもさんはアル中だったけど、アノニマスじゃなかった。身を削って文章を書いていたはず。
たくさん身内に怒られただろう。思ったことが言えない社会も怖いけど、何でもかんでも人を傷つける世の中って言うのもいかがなものか・・・・・・。いかがなものかって、意味のない言葉で終わってしまった。
灯油を買いに
嫁が灯油を買いに行った。いつもは俺が休みの日に車で買いに行くのだが、先週は街に出かけたり、まだポリタンクに残ってたりで、買わなかった。昨日朝から、石油ストーブと石油ファンヒーターの分がなかったらしく、自転車で買いに行ったそうだ。
嫁は自動車の運転免許を持っているが、ペーパードライバーなので滅多なことでは運転しない。運転できた方が自分にとっていいような気がするが、彼女は子供がそこそこ大きくなった今でも。子供を乗せるカゴの付いた自転車であちらこちらに出かけていく。
灯油を入れるポリタンクは18リットルの青いヤツでホームセンターで売ってるヤツだ。なぜ自転車で買いに行くのか理解できない。車もあるし、免許もある。寒い。寒いから灯油がほしいのに、自動車なら冷たい風にさらされず、買いに行けるのに。
今の車に変えたとき、ドライバーアシストみたいなヤツが付いてる車にした。それは嫁が希望したからでもあった。彼女は何度か乗ったが、工事中の赤い三角のコーンにぶつけて、気持ちが折れたみたいだ。
で、最終的に子供を乗せるカゴに18リットル灯油が詰まったポリタンクを乗せて、えっちらおっちらこのクソ寒いなか近所のガソリンスタンドに行ったということだ。
うまく説明できないが、向いてないことはしない、ということか、できないことはしないということか、合理的に説明できるような要素は何もない。彼女も将来のことはあまり気にしてないと思う。
石油ストーブと灯油ファンヒーターに囲まれて彼女はぬくぬくと昼寝してるのだろうか?
時々思うこと
最近はあんまりいいことがないような気がして、日々ぼんやり過ごしていた。家に帰っても子供たちは引きこもっているし、嫁は俺の相手で疲れているし、テレビは下らないことばかりしゃべっているし、音楽はもうつまらないし、サイクルロードレースは解約してしまったし、俺は自ら生きる楽しみを放棄しているようだ。
だけど今日思いがけなく嬉しいことがあった。「たまむすび」に赤江珠緒が帰ってくる。あのポンコツ工場長、赤江さんが「たまむすび」に4月から復帰するらしい。こんなに嬉しいことはない。狂喜乱舞してもいい。産休で去年の4月から休んでいたのだ。だけど代打のパーソナリティーがTBSのアナウンサーばかりだったので、これは一年で復帰の線もあるんじゃないだろうかと、勝手に勘ぐっていたのだ。素直に嬉しい。おめでとう。
僕は数年前から目の病気を患っていて、あまりはっきりとものが見えない。また見えていても、長時間見てるとすごく疲れるのだ。だから最初は音楽ばかり聞いていた。そのうち音楽も飽きてしまって、ラジオを聴くようになった。ラジオというメディアはまだ昭和の香りが残っていて、パーソナリティーが比較的本音を言いやすい空気がまだある。だからみなリラックスして、ラジオを放送したり、聴いたりして、双方向で理解があるのだ。テレビにはなくなってしまったアットホーム感が好きだ。
「たまむすび」はその中でも唯一無二と言っていいぐらい重要なニュース、時事ネタを扱わない番組で、ヘビーリスナーはみな、その緩さが気に入っている。どうでもいい話を肩の凝らない話を二時間半提供してくれる。素晴らしい番組だ。病気をして以来ずっと聴いている。ナタリーが抜けたときはとても悲しかったけど、たまちゃんが帰ってくる、生きててよかった、そう思う数少ない瞬間だ。
時間に追われ、情報に追われ、金融市場、日経平均株価なぞに振り回される毎日おいて、その自然体な姿勢は見習うべきところが多い。もちろんメディアとして、全国に放送しているので、番組は自然体っぽくやっているだけなのかもしれないがリスナーはそれも含めて楽しんでいると思う。
もう一度、生きててよかった。何年かに一度そんなことを思う、今日はいい日だ。
健康ってすごい
今週のお題「ゲン担ぎ」昔は薬が嫌いで、飲むのが嫌で、どうしても飲まなきゃならないとき以外、避けていた。
風邪を引いても、足が痛くても、湿疹だらけになっても、俺は病院が嫌いで、医者が嫌いで意地でも行くものかと、思っていた。
それは大変に子供っぽくて要は、自分が病人であるってことを認めるのが怖かっただけなんだろう。病院に行けば医者は何かしら病名を思いつくし、医者が何か病名を思いつけば治療、薬となって俺は見事病人の仲間入りだ。
貧乏と同じで病気であることは、恥ずかしいことでもなく、自慢することでもない。もちろん健康な方がいいのだけれど、五体満足どこにも病気、ケガを抱えてない人っていないでしょう。いる?
薬を飲まないことが、俺にとって健康である象徴だったのだが、それはどうやら間違っていて、俺は病院に行けばたくさんの病名をいただくぐらい、病んでいたのだろう。
今は実際に難病指定を受けるほどの病気を抱え、毎日をやり過ごさなければならない。薬も毎日だ。薬のおかげで生きている。薬サマサマだ。どうだ、このかわりようは。
いまでも薬を飲まなくてすむなら、どんなに楽かと思う。でも薬をやめたらたぶん俺は失明するし、失明したら仕事ができなくなる。そうすると家族は路頭に迷い、俺は昼間っから飲んだくれて、ラジオばっかり聴いているだろう。
俺は健康だった。もしゲン担ぎして、たとえば毎日納豆巻を食べたら、病気が治るなら、毎日納豆巻を食べる。宇宙人と交信しろって言うのならば、無線の免許を取ろう。今日のラッキーアイテムがリラックマのセカンドバックなら俺は、買ってそれを使おう。
世間はヴァレンタインデー
ヴァレンタインデーということです。とにかく世間様は可愛らしいものに、飛びつく傾向があるようで、フォトジェニック、インスタ映えなどと報道されて、それで経済が回っていて、株価も上がり続けているみたいだから、世の中がデコラティブなほうに向かっていく。
昭和のおっちゃんはだいぶついていけないんだけど、頑張って百貨店まで出かけて、大量の女子の中に紛れて見事チョコをゲットしたよ。
消費活動で少しストレス発散されたのか、気分すっきりです。
人酔いして、疲れました。また明日会いましょう