ハロー神様、グッバイ神様
このところ漢字クロスワードパズルをやっている。潰す暇なんてないのだけれど、気分転換や煮詰まった時に時々やると、新しい言葉を覚えてそれで考えることがある。
この間「弁神論」なる言葉が出て来て、なんじゃそりゃと思って調べたら、ライプニッツという中世ドイツの哲学者が「全能なる神の善性が悪の存在と矛盾しない」ことを証明しようとした弁論。そういう本を彼は書いた。
「全能なる神の善性が悪の存在と矛盾しない」なんて文字で書いたらもうそこでゲームオーバーみたいな気がするけど、中世ヨーロッパの人たちにとって一神教であるキリスト教は、とにかく理論上でも完全じゃないと、ダメだったんだろうね。
どういう弁論内容なのか読んだことがないし、読む気もないので知らないが、そういうことを本気で考えるなんて、暇なんかって、つっこんでしまう。賢くなればなるほど人は極端になってしまうんやね。
少し考えてみる。そもそも悪とは何かという定義から始めなければならないのだけれど、いわゆる一般的にキリスト教で悪とされてること、殺人なり、窃盗なり、姦淫なりが悪だと仮定して、神様であるキリストはなぜ全能なのにこういった諸悪を許しておくのだ、おかしいやんかってことから、話が始まるだろう。
多神教であれば悪い神様もいるから、いい神様を信じて心易く暮らしなさい、で話が終わるのだけど、ジーザス・クライスト・スーパースターだから、なんとかならんのかしらと思うやろうね。
あえて人類に対して大罪を、与えておられるならその心は、いかに?ということなのでしょうか。
昔駅のホームで神を信じますか、と聞かれることが時々あった。俺は神様を信じているか。信じているのかな。俺が信じているのは森羅万象いろんなことが、いろんな神様のもと決まっていくのだろうと考えている。別に神様が天上界で集まって会議してるとかじゃなくて、雰囲気で決まっていくような気がする。
悪の存在がうっとうしいものであるのは確かなんだけど、俺は何かを悪だと決めるには十分に賢くないし、どうだろう、それこそ神様やライプニッツに比べてアホなのは間違いない。
そんなことよりも、現実的に対処しなけりゃならんことが山ほどあるので、これにて失礼!
生きててすいません
僕は前にも書いたけど40ぐらいで死ぬと思ってたので、どうも現状がうまく飲み込めない。飲み込めないというのとは、違うかもしれんが、今生きているのが奇跡のようなのだ。らもさん。俺はもうちょっと頑張らんといかんのか。
毎日肉体を酷使して働いている。自分に対する何か、責任みたいなものを感じるタメだ。俺はもっとダラダラしたいのだけれど、そうは問屋がおろさないので、とりあえず働いているのだ。働くのは嫌いじゃないんだけど、みなわがままを言うのだ。みなのわがままを聞くことで給料をもらっているのだけれど、それにしてもひどく無茶を言うのだ。
俺の無茶も聞いておくれよ。こんなにクチャクチャなのはやっぱり20代の時に自分を甘やかしたからかしら。甘やかしたつもりはないんだけど、40で死ぬと思ってたから、なんの準備もしてなかった。子供を授かって、嫁をもらって家を買って、なんだか冗談半分に過ごしてきたけれど、気づいてみれば、50間近で、何も持ってない自分に気づいた。遅ればせながら色々と手を変え品を変え、日々をやり過ごしているが、やっぱり地道に働くしかない。
眼高手低という四字熟語を知った。俺はまさしく眼高手低なのかもしれん。日々がんばります。
まずったかな・・・・・・。
四人はアイドル?
今週のお題「私のアイドル」「四人はアイドル」ってビートルズのHELPっていうアルバムの邦題だけど、ジョン曰く「本当に助けてくれ、と思ってたんだ」と言ってる。ジョンは比較的後付けでいろんなコメントを発しているので真相はわからないけど、まああんなにわけのわからない喧騒の中四六時中いたんじゃ、頭もおかしくなろうというものだ。
いわゆるアイドル聖子ちゃんとかおニャン子とかそういうのに全く興味がなくて、テレビの向こうのちょっと可愛い子にそんなに、夢中になれなかった。
俺はどっちかというとリアルな感じが好きで、フジの中井美穂、RYUS BARに出ていた岡部まりが好きだった。アイドルっていうか可愛らしい女の人みたいな感じだった。中井美穂はヤクルトの古田と結婚した。岡部まりさんは最終的に結婚したとは聞いてない。誰かに参議院選に担ぎ出されて、それで落ちて見てない。
素朴な人柄が好きだったのだと思う。
これはもうおじさんの定番のボヤキなのだが、最近のアイドルは皆同じ顔に見える。言ってみれば目鼻立ちがはっきりして、少女漫画から抜け出て来たような顔だ。西洋人コンプレックスなのだろうか。皆整形してるようにも見える。
シュッとした美人を見ないと嫁に話した事がある。具体的に誰って聞かれて、名前が思い出せなくて、20分ぐらい調べてやっと名前が出た。伊東美咲だった。ルキアのポスターを地下鉄の駅で毎日見てて綺麗な人だと思っていた。
マーク・ボランにも熱中した。「電気の武者」なんて死ぬほど聞いた。かっこよすぎた。レスポールが欲しいね。財テクで金が溜まったら、地下室作ってレスポールとマーシャルアンプ買って、大音量で20th century boyでも弾こうか。
誰のために
僕は誰の言葉を信じればいいのだろう、そう言われてはっとした。
僕は常に自分を信じてきた、だけど迷ったとき、疲れたとき、苦しいとき
そばにいてくれた人たち、音楽、小説、絵画があった。
僕は常に自分の為に創作してきた、芸術とはそういう自己の情念や感情を
表現するものだと思っていた。
最近自己の感情にたどり着けなくなり、俺はもう死ぬのだろうかと思っていた。
芸術は自己のためだけじゃない、迷える人たちのためでもあることに気がついた。
同じ道を歩く者の先輩となり、指導者となり、友となり、互いに支え合って生きていく。
そんな当たり前のことに気づいた。清貧なる友よ。
僕らは生きようじゃないか、四角い白い箱に負けずに、
額に汗して、言葉をつむぎ、すぎたる幸せを掴まぬように
大地に種をまこう、大地に種をまこう
勉強しすぎ
昨日ゴッホ展に行った。ゴッホまるまるという展示はあんまり無いので非常によかった。寒かったけど。遠かったけど。見にくかったけど。
それにしても今回来たのが、浮世絵の模写だったこともあるのだろうけれど、浮世絵との関連性を強調し過ぎて多様におもう。ゴッホの浮世絵に関する影響はよく知られているところだし、ゴッホ自身の手紙にも日本へのあこがれがつづられて文章があるので、多大な影響はあっただろうと思う。
だけど学芸員さんは少し勉強しすぎのようだ。俺はゴッホの絵を見に行ったのに、学芸員さんの研究発表を見に行ったような気分になった。関連性もあるだろう。模写もあるだろう。日本への憧れもあるだろう。だけどゴッホの絵は魂の絵だ。色の魂だ。色がカタマリで渦を巻いて、僕たちに語りかけてくるのだ。
印象派という土台があって、浮世絵という要素もあって、そのほかの要素もあって、ゴッホの魂が描かれているのだ。第一昨日の作品の第一番目の絵はミレーの「種をまく人」の模写だった。大ぶりの木で画面を真っ二つにしていたが、種をまく人はミレーだ。印象派そのものじゃないか。
絵は感じるものだ。勉強するものじゃない。心に訴えるものがいいものだ。たくさんの絵を見て初めて感じることができるってこともあるだろう。ある意味、絵も音楽も文章も同時代じゃないと理解しづらい側面もあるだろう。今は誰もが正解を持ち、誰もが答えを持ってる時代だ。だからこそ不正解だったり、沈黙することが重要なのだ。情報は常にコントロールされている。意識的に無意識的に、政府?経済界?よくわからない。
誰も彼も何か買おうとしていると思う。何を買うのだ。俺とゴッホの魂はちょっとやそっとじゃ買えないぞ。
金はないけど
京都までゴッホを見に行った。京都国立近代美術館でゴッホ展をやっていた。よく知っている絵もあったし、はじめてみた絵もあった。目が悪いので照明具合があまり僕向きではなく、薄暗かった。
作品に近づかないようにする囲いも遠くにされていて、細部がよくわからない物もあった。目の病気の人用の何かそういうのってないのかしら。だいたいあまり目の悪い人は絵画の展覧会なぞには足を運ばないから、そういった配慮はないのだろうか。しょうがない。
ゴッホの作品だって僕の気に入るものもあれば、これはちょっとどうなんやろう?と思うものもある。そりゃそうだ。習作もある。傑作もある。駄作もある。
晩年は感情のうねりがそのまま筆跡にでていて、その原色の明るい色彩と相まって彼の持つエネルギーを直接感じることができる。今回の展覧会ではジャポニズム、浮世絵との関連性をさかんにアピールしていたが、学芸員さんのまじめさ、勉強熱心さは伝わったけれど、勉強しすぎ感、何でもかんでも浮世絵に寄せてしまっていて、ゴッホ本人が試行錯誤した部分をもっと斟酌してほしいとおもう。
彼が亡くなった跡、弟テオもすぐ亡くなって、懇意にしていた画廊で売り出してゴッホは有名になった、と聞いた。生前に売れた絵は一枚だけだったという風の噂だ。芸術とはそういうものだ。
世の中とは関係なく、働き方改革法案とは関係なく、自分の生きるエネルギーを形にすることだ。みな芸術と工芸を時々混同しているように思う。
芸術が時に貧乏なのはそのためだ。お金の為じゃなく、自分の為にやっている行為だからだ。
工芸は違う。他者のためにやるものだ。
ゴッホの自画像を至近距離でみた。堂々と自信に満ちた視線の中に、見るものを不安にさせる何かがあった。それが何かはわからない。
君は見たことがあるか
明日京都にゴッホを見に行く予定だ。結局エルミタージュを見に行けなかったので、残念だ。
ゴッホが好きだというと、なんだか面映ゆい感じがして、大きな声で言うのはためらわれるのだが、好きな物は仕方がない。ちなみにクィーンとビートルズも好きだ。俺は基本保守本流が好きなのだ。ピカソは好きじゃない。キュビズムは頭でっかちだ。ゲルニカは見たことがないから、見たら感動するかもしれん。
中世の西洋絵画はキリスト教と神話の知識がないのであまり楽しめない。庶民の暮らしを描いた絵が好きだ。だからフェルメールも好きだ。結局王道だ。
ひまわりは見たことがない。日本にあるらしいが関西在住なので気軽に見に行けない。
どこかに出かけることが億劫になりつつある。だめだとは思うが、どうしょうもない。コミュニケーション障害を最近はコミュ障と略すらしいが、病気のせいかそれともコミュ障のせいか人を避けたい気持ちになる。
人疲れしてるのかもしれない。
絵描きはいい。熊谷守一などは30年家から出なかったと聞く。病気もあったそうだが、それは俺だって同じだ。
俺は下手な絵でも、うまい絵でも好きだ。いい文章も悪い文章もない。俺がいて俺が思う気持ちがあって、それが素直に書けていればそれでいい。
とかく俺も含めてみな複雑になりすぎた。もう後戻りはできないし、する気もないが、心がバラバラになってしまう前にとにかくどこかに着地しなければならん。