スターバックス
久しぶりにスターバックスに来た。トールサイズ。今日の粉はカチカチらしい。酸味と苦味がパキッとしたコーヒーだね。
俺は今日も朝走った。いつも走っている坂道に車を止めてあって、走りにくい。近くの川で魚釣りをしているらしいが、じゃまなんだよね。お巡りさん、ちょっと何とかしてくださいよ。
疲れているのはしょうがないのかな。坂道ダッシュ。46なんだから。疲れるのはしょうがない。薬も飲んでふらふらと意味のない文章を紡いでいく。俺はぐうたらしたい。
足が速くなりたい。早く次の小説を完成させなければ、どうもこうもないんじゃねえ。もう自費出版するしかねえんじゃねえ。
いいね、スタバ。リラックスできる。やっぱり照明具合がいいのね。あと木のテーブルの感じと。みんなそれぞれに勉強している感じが、ときどきコーヒー豆を挽く機会の音とか、生活の雑音それが、上品で落ち着くのさ。
これから少し原稿を書こうと思う。
いい話が書ければいいね。
カフェとフードコート
本日は一週間ぶりにカフェでコーヒーを飲む。いい感じ。落ち着くわ。朝淹れたコーヒーをマグボトルに入れて、フードコートで飲みながら、パチパチするのはなんだかもう目も疲れるし、だだっ広いし、寒いし、コーヒーはぬるいし、気分が滅入る。やっぱりカフェで落ち着いた雰囲気で、カップアンドソーサーでずるずる飲むのがいいのだ。あとは照明具合と椅子の具合と、二年近くも通っていたら、それは自分の席ってもんがあって、少しクッションの効いた椅子に深く腰掛けて、二時間なり三時間なり、文章を書かなきゃいけない。
顔なじみの店員さんの笑顔にほっこりして、意地悪な店長の接客態度に内心ムカムカしたり、そんなこんなでやっぱりこの店が好きなんやね。
イヤホンで音楽や落語を聞きながら、俺は今日もパチパチパンチや。
また一つ
俺はゴールデンウィークの生まれで、今年で46になる。毎年誕生日が来る。休みの日に。だが俺はサービス業なので、あまり誕生日に休んだことはない。休みたいとも思わない。誕生日がハレの日なのはわかるけれど、俺はもう引退した身だから、かまってほしいとか、もういいのだ。それよりも日々の充実が先なんだ。プレゼントがあってもいいと思うが、分相応というものをわきまえている。
日々の充実と言う意味では、どこかに出かける予定ではある。そういえば嫁と子供は神戸の博物館でやっている「天正遣欧少年使節」のイベントに行きたいと言っていた。その「天正遣欧少年使節」と言うのがおれはまったくわかっていないが、博物館に行くこと自体好きなので、まあつきあってもいいだろう。
それにしてもこんなに歳をとって苦労するとは思ってなかった。俺は物欲があんまりなく、本とCDがあればそれで十分なのだが、子供を育てるのにこんなにも金がかかると思ってなかった。ちょっと世間知らずやったね。俺はマーク・ボランみたいに30歳ぐらいで死ぬと思っていたから、あんまり先のことは考えてこなかったのね。だからくろうしてるのかな。結婚して子供を作って。なんとなくだらだらしてたら、フードコートでステンレスボトルに入れたコーヒーを飲みながら、物書きのまねごとをするとは、思ってなかったよね。
らもさんが亡くなったのは、何歳やったっけ?52歳か。俺ももうちょっとやな。そこまでたどり着いたら、もう俺もゴメンしてもらってもええんちゃうやろうか。
塾に行かないと言った
子供が塾に行かないと言った。その心は・・・・・・と問い返した。先生が辞めた方がいいと言った。そんなはずはない。と思ったが、諸々聞いていくうちに納得がいった。またしてもうちの子供は他の子供と、トラブっていて、それで行きたくないというのだ。闇を抱えてややこしくなってるというのだ。登校拒否は我が家の伝統ではない。コミュニケーションに問題はあるが基本真面目で善良な子供たちだ。しかし早くも病んでいるのか。現代社会はいったいどうなっているのだ。少数派の生きにくい時代だから、自分の我を通すことは、即イジメにつながる。許容範囲がすごくせまい。
日本という国から優しさはなくなってしまった。他人を支配するために、攻撃的な物言いで、傷つけ貶める。つまらない。日本に今必要なのは、実は宗教なのかもしれない。俺はいかなる宗教も信じていないし、そういう団体に入ったことがないが、宗教がもたらすある種の秩序や、心の平和について考えたことが無いわけではない。
仏教、キリスト教、イスラム教の中で一番ピンとくるはやっぱり仏教かな。あらゆる事にバランスをとろうとしていて、それが一番落ち着く。キリスト教やイスラム教は僕に言わせれば、少し極端なところがあって、それがどうにもなじめない。
子供の話だった。このまま学校までずるずるなる前に、闇を覆い隠して生きろ、と言った。もっと人のさばき方がわかってきたら、いろいろ発言したらいいんじゃないかと思うが、とにかく黙って、苦虫を噛み潰して、やり過ごせといった。
ドーピングについて
昨日、リエージュ・バストーニュ・リエージュで歴代優勝者の話が出た。グランツールレーサーでもねらえるのがリエージュだと言う話の流れだった。それでヴィノクロフとかレベッリンとかタイラー・ハミルトンとかの名前が出て、栗村さんが「いろいろあった人達」みたいな話をしたから、フランク・ヴァンデンブルックとかの話になって、ますますいろいろあった人達だなということになった。
ベッティーニも勝ってるのね。イグリンスキーもアウトになったんやったっけ。そうドーピングの話を書くんやったね。言ってみればバルベルデもオペラシオン・プエルトで一回アウトになってるし、アンディ・シュレクはどうなのって気持ちもあるし。疑いだしたらキリがないんやけど、別に俺はあんまり気にしないようにしている。
ドーピングの問題点って結局、公平性の問題になるんやとおもうんよ。やってる人間とやってない人間と同じ土俵で戦って、勝ち負け決めても意味ないでしょってこと。
じゃあ過去の優勝者に対して、どういう気持ちで向き合えばいいのか。そんなんわからんよね。うまいことやって勝ったやつがえらいんちゃうのかしら。
どういう風向きで話を書くのか見失ってしまった。なんとなく好き、なんとなく嫌いで、分けてみようか。なんとなく好きなのはバルベルデ、アンディ・シュレク、ダニエル・マーティン、ジルベール、ベッティーニ。なんとなく嫌いなのはディルーカ、タイラー・ハミルトン、レベッリン、ヴィノクロフ。そんな感じ。
強面が嫌いなんかな。俺はウサギのように優しいから。ややこしそうな人間はイヤなんや。
ミケーレ・スカルポーニ
アスタナのミケーレ・スカルポーニの訃報を聞いた。さっき見たリエージュ~バストーニュ~リエージュの冒頭でサッシャが言っていた。
ジロ・デ・イタリア総合優勝の経験もある実力派の選手だった。だけれども彼自身はあんまり自信の成績を出すのに、こだわっていなかったように思える。そういった一歩引いた走りが好感の持てるいぶし銀の選手だったような印象がある。
ロードレースはその性質上エースがはっきり決まっており、アシスト選手がエースのために脇役に徹する。それがまたサイクルロードレースのいいところなんだけど、実力の高い選手がアシストに回れば、自ずとチームは強くなる。
ミケーレ・スカルポーニはまさに最高の実力を持ったアシストだった。アスタナでニバリが活躍できたのも、スカルポーニがいたからだ。
俺たち庶民はそういう縁の下の力持ちてきな選手に自分を重ね合わせ、時には苦い思いを押し殺しエースが活躍する様を温かい目で見守っているのだ。
車にひかれたと聞いた。子供もちいさかったみたいだ。悲しい思いでいっぱいだ。バルベルデも勝ったあと、スカルポーニの名前を挙げていた。バルベルデもスカルポーニもサイクルロードレースを心底愛している。そしてそれが伝わってくる数少ない選手だったように思う。
スティービー・レイ・ヴォーン
スティービー・レイ・ヴォーンのアルバムを買った。一言でいって素晴らしい。以外の何もない。なぜ今まで持ってなかったのか、そのほうが不思議だ。ベストは持っていて時々聞いていたけれど、なんというかこの「テキサス・ハリケーン」と言うアルバムはそんじょそこらのアルバムとわけが違う。ブルースギターで頭の中を、シェイクされた感じだ。
俺なんかが解説するよりも、もっとたくさんのファンや評論家がスティービー・レイ・ヴォーンについて語っているはずだから、そう多くは書かないけれど、熱量と魂がこんなに詰まってるなんて、もうどうしようもない。シンプルさが一番だと言っていたみたいだが、同感だ。だけど、レイ・ヴォーンはテックニックも最高級だけどね。
しばらく愛聴盤になりそうだ。他のやつも買おう。