油絵を描く 6

f:id:samuiottyann:20180402185757j:image主治医の先生が産休で休まれる。のでプレゼントようにバラの絵を描いてる。

全体に淡いトーンの絵なので、恐る恐るうっすら描き始めた。会うのは今月22日ぐらいかしら。あと何回描くチャンスがあるのかわからないけど、ちゃんとしたものをあげたいから、ちゃんと描きたい。

さっそく嫁のダメ出しが出て、もっとああしよう、こうしようと、アドバイスを、もらった。誰かがアップしてた写真を勝手に絵におこしている。バラねえ。ピンクのバラなのよ。しかも淡いピンク。見る分には綺麗なんやけど、描くとなると微妙な色の感じが必要じゃない。

それにこの写真、逆光なのよね。テーブルの色調とかほんと濃くなったらやばそうなのよね。あとは光の透明感がないと、言われたので、透明感のある白の絵の具を買って、どこまでガラスの器と光を表現できるかやんね。俺はなんでもイエローオーカーですましてしまうから、絵の具のチョイスからまたやり直さんとあかんかしら。

昨日大阪城で家族で花見をした。桜越しの大阪城を写真に撮ったり、大阪城をスケッチしたり、して過ごした。

そんなに上手じゃないのに、スケッチブック持って、絵を描いてるだけで、通りすがりの学生さんなんかは「おお、すげえ」なんて言ってくれるからこっちも調子に乗って、頑張っちゃうじゃない。

で、今度のバラと並行して、桜と大阪城を描こうと思っている。写真はバッチリおさえてるから、あとはどんな風に描くか、だけやね。

候補はこれ

f:id:samuiottyann:20180402192130j:image次また頑張ります。

ロックという生き方

ロックンロールは音楽の一ジャンルである。と同時に生き方自己表現の一つの形態でもあります。

チャック・ベリーエルヴィス・プレスリーエディ・コクランなどから始まった音楽はそのまま反体制、反権力の象徴、若者の反抗のシンボルミュージックとして根付きます。それは時代背景としてロックが勃興した60年代から70年代にかけて、資本主義対社会主義の冷戦があり、ベトナム戦争があり、それにに対する反戦運動、愛と平和を求める若者たちの音楽だったからです。

今となっては、所詮はみな金儲けのための愛と平和であり、権力闘争の一部だったことがはっきりするのですが、でも当時の若者は真剣に愛と平和をロックンロールという音楽に想いを寄せて、聞いていたのだと思います。

もし自分が当時の若者ならば、ギッチギチに理論武装して集会にでて、デモに参加したのでしょう。

反権力というのも甘いささやきです。媚びずに生きて行くというのは、とても魅力的です。しかし得られるものや、愛情、人情という部分では難しいことがあるのじゃないでしょうか。

人間味というのは一体どういうことか。ロックンロールは音楽だったんです。女の子とデートする。一緒に楽しむそんな音楽だったのです。時代が変わってラップ、ヒップホップがそれに変わりました。

ロックが死んだんなら、そりゃロックの勝手だろう、とヒロトは歌います。誰だって、お金がないなら働かなきゃダメだし、働くにはロックンロールはさほど、協力的ではないような気がします。

全ては甘いささやきなのかもしれませんが、何かしら美しい単純さを感じるのです。

ソーシャルネットワークサービス

いわゆるソーシャルネットワークサービス、SNSをやめたいと思う事がある。Facebookはもうすでに休眠状態で、Twitterはやってないし、LINEは家族と少数の友人とのメール交換のみだ。このブログが不特定多数との窓口なわけだけれど、俺の人生はもう、開かれようとはしていない。真逆でもうつながりを出来るだけ、少なく小さく閉じようとしている。大きくつながればまた、誰かに迷惑がかかるし、それをおしてまで得る楽しみももう俺には過ぎるような気がするんだ。

この一日数人が見に来るブログが俺のアンテナであり、窓口なのだが、広がったと思ったら外国からの広告をよびこんだだけで、うんざりだ。もう誰かと話をするとかそんな、ブログというのはないのかもしれない。

ブロガーという職業が存在するように、広告があってアクセス数に応じて、少なからぬお金が入ってくる。そんな人もいるだろうし、そんなお金儲けもあるだろう。

昔は自転車ブログを書いていた。違うところで。友人の何人かは読んでいた。このブログを知っている友人はいない。それは俺の毒や苦しみを告白する場所だからだ。

だからこのブログは怒りやグチに満ちていて幸せな、感じはあまりしない。それはとても申し訳なく思う。読む人に楽しんでもらいたい。俺の師匠らもさんはそんな人だった。まじめだったけれど、全力でふざけてもいた。

家庭の問題が深刻になるにつれ、このブログもだんだんと内容が固く内省的になった。

いい話題を少し書こう。不登校だっ娘が高校デビューした話は書いた。その娘が二年生から特別進学コースに行くらしい。彼女は勉強が出来る。薬剤師になりたいと言っている。彼女は自分でいろんな事を考え、感じているだろう。だからこそがんばったのかもしれない。家でよく見る光景はゲームばかりしてる姿だが。来年からは勉強ばかりしなきゃいけないよ。

何だっていうのさ

桜が満開だ スケッチして 油絵におこしたい

きれいだろうか 俺にはもう色をちゃんと認識する力はない

何となく こんな色だろうな ぐらい

それでも絵にして 魂込めれば なんとか格好はつくんじゃないか

誰も彼も好きなこといってら ほっとこう 巻き込まれたら怪我するだけだ

それにしても いい天気が続く 走っていい汗かいて 

涙流して 歌を歌って 悲しい気分でジョークをいう

傷ついているのだろうか 内省的でしょうがない

うまくいかないことさ こんなことは 続きっこない

ピンク色の春は 苦しいものなのだろうか

おまえの心はどこへ行く さらば友よ メリー ねじ回し

そういや このあいだ 寅さんの口上を読んでいた

そのなかでサンキューねじ回しなる一説があって

俺はサンキューねじ回しを気に入った

らもさんのエッセイの中でその日の幸せを見つけるみたいな話がある。どんなにつらい一日であっても、どこかすっぽり心が安まる瞬間がある。そう言った話だった。

今日はサンキューねじ回しが俺にとっては幸せに当たる。ねじ回しに感謝だ

おわかれ

今日3月末で定年退職する人の、お別れ色紙を書いた。そう言うの書くのは久しぶりなんだけど、目上の人にむかってお別れの言葉を書くというのは、簡単なのか難しいのか、どういう心持ちだろうと、相手の気持ちを想像しながら、悩んでしまった。

俺は比較的ドライな方で、生きてりゃ出会いもあるし別れもある。どうしても別れたくなかったら、電話番号なり、住所なり聞いて個人的に会いに行けばいい、ぐらいに思っている。まして会社のことだから、いい思い出ばかりじゃなかっただろうと推測も出来る。そりゃ思い入れは強いだろうし、自分のしてきた数十年が、終わっていくのは寂しいものだろうと思う。感慨深いものだろう。

定年といってもその方はとても元気で矍鑠とされて、まだまだ働けるのに、とまわりは思っているのだけれど、やはりゆっくりした老後を望んでおられるみたいだ。俺はうらやましい限りだ。

みな何か贈り物を考えていたみたいだけれど、この歳になると欲しいものとかない、といっておられる。昭和のお母さんの代表みたいな人だね。

俺はただご苦労様。ゆっくり静養してください、ありがとうございましたと書いた。直接一緒には働かなかったけれど、隣の部屋でいつもがんばっておられて、いい噂しか聞かなかったので、いい人の印象がある。

たまむすびのアナウンサー陣も続々とお別れになる。一年間の代打というのはとても難しいものだ。俺は陰で不満ばかり言っていたが本人の苦労を思うと、謝らなきゃいけないね。

いろんな人がいろんな形でがんばっている。それはわかる。それでも俺とは意見の合わない人もいる。それはそれでしょうがない。いろんな意味で楽しませてくれてみな、ありがとう。

吉田明世

今日で吉田明世がたまむすびを卒業する。来週からは赤江珠緒が帰ってくる。全曜日、赤江さんのピンチヒッターのアナウンサーだったのだけれど、人気者の後はとてもやりづらかったはずだ。

赤江さんの伸び伸びとした自由な雰囲気が好きで、たまむすびを聞いていたのだけれど、他の人に変わって、ピンチヒッターの方々はさぞかし、ああだ、こうだと言われただろう。「笑っていいとも」「ニュースステーション」長く続いた人気番組の後なんか、何をやっても文句しか言われないから、つらいものがある。

会社の人事異動も同じだけど、優秀な人間の後ほどやりにくいこと、胃に穴が開くぐらいだ。だけれども、しばらく2,3年ぐらいしてくると、職場になじみ部下も同僚も自分のやり方というか、パーソナリティを受け入れてくれるようになる。そうなれば仕事もスムーズに進むようになるのか・・・・・・

実際はそうでもあり、そうでもない。結局のところ優秀であるかどうかは、重要ではないともおもう。比較的大きな会社というのは代わりの人間が常にいるし、優秀な人間も時々いる。だから自分が優秀でなくても、ふらふらと漂っていれば、辛抱は必要だけれど、何となく着地するものでもある。

吉田明世は妊娠していて、5月ぐらいに子供を産む。とてもめでたい。吉田明世は母になる。赤江さんも母になった。子供というのはいいものだ。未来だから。それらを生む母もまた素晴らしい。子供のいない家庭もあるだろうけど、欲しくてもできない人もいるだろうけど、色々悩む人は子供のことでまた、悩むのだろう。出来なかったら出来なかったで、出来たら出来たで、悩むのだろう。

寂滅為楽という言葉を知った。仏教用語だが、悟りを開けば楽になるという意味らしい。悟りっていうのは、煩悩をそぎ落としていくことだから、感情を緩やかにマイルドに整えていくことだと思っている。悟りを語るほど悟っているわけじゃないけれど、日々心を洗濯していようと思う。

厳密には

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#私の一人暮らし

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厳密には一人暮らしをしたことがない。だが一人暮らしに近いような状況になったことは、何度かある。

学生の頃、親父と母親が仕事の都合で仙台に一年行っていた。だから兄貴と俺で実家で暮らしていた。何をどう暮らしていたかは、覚えていないが、兄貴は働いていて、俺は学生だったから、洗濯は俺がしていたような記憶がうっすらある。ただ、いまいちよくわかってなかったので、下着もタオルもジーパンも一緒くたにして、洗濯機に放り込み、適当に干していた。干していたかどうかも記憶にない。たぶん干していたのだろう。ビチャビチャのままのを着た記憶はない。

家を建て替えるとき、俺は一月間ぐらい友人の家に居候していた。友人の家にはイグアナがいて、俺は本をたくさん持って行ったのだが、イグアナの糞で汚れてしまった。俺はフリーターで家にいる時間が長いものだから、電気代が高くつくと友人が言ってきて、俺はいくらか金を払った気がする。その当時付き合いかけていた彼女と万年床でエッチをして、暑くて、扇風機だけで、なんだかおかしな思い出かもしれない。

嫁が子供を産んでしばらく実家にいた。俺は家で一人だった。このときが一番一人暮らし感があったのかも。料理はしない。できなくはない。俺はニートだったから。冷蔵庫にあるもので料理を生み出すのは得意だ。

だけど面倒く下がりやだから、ちゃんと働いているときは料理はしない。仕事が遅くなることが多かったから、スーパーの値引き総菜や弁当をよく買って食べていた。でも食べたい物は選べない。半額シールが張ってあるかどうかで、食べ物が決まる。週に一回嫁の実家にかえって、下着を洗ってもらい、洗濯物はためていた。

ゴミもちゃんと出していた。俺は食べるときそばに必ずゴミ箱を置く。だから総菜や弁当の容器は食べたそばからどんどん捨てていく。家ではビールを飲むが、そのときは缶のまま飲んでいた。コップで飲むと洗わなくちゃならない。

トータルして考えると、一人暮らしならではという苦労はしていないと思う。水道料金も電気料金もガス代も払ったことがない。今でもいくら払ってるかしらない。

俺は昭和の人間だから、けちではないが、今家計がどうなってるか詳しくは知らない。喫茶店でシロ・ノワールたべながらタブレットでブログを書くぐらいの財力はある。