アカデミー賞の話
町山さんのアカデミー賞ラジオ解説を聞いた。作品賞は「シェイプオブウォーター」がとったらしい。デルトロ監督は怪獣オタクで、町山さんと個人的にも親しいらしい。
アカデミー賞の授賞式自体はとても政治色が強い発言が目立ったと言うことだ。黒人、メキシコ系、女性、ゲイ、そういったマイノリティの主張の場であったと。
町山さん自体がマイノリティなのでどうしても、そういう政治的発言が多くなりがちなのはわかるし、俺自身どちらかというとマイノリティなので、共感できる部分もある。
いまアメリカ大統領はトランプで、ご存じトランプは人種差別主義者と言っても過言ではない。だからスポーツ選手なり、俳優さんたちが立ち上がり、マイノリティの立場を主張しているのだろう。
「シェイプオブウォーター」は半魚人のこいを描いた作品で、曰く怪獣映画らしい。で怪獣は移民である自分自身のことだ。とデル・トロ監督は言っている。居場所がないんだ。マイノリティには。ここにいてもいいという場所がない。その気持ちはよくわかる。俺は目の病気をして、職場復帰してから、自分の居場所がないような気がして、仕方がない。みな過剰に、腫れ物に触るように接してくる。
昨日、R-1を見た。全盲の男の子が優勝した。盲学校あるあるを話していた。俺は複雑な気持ちを抱いた。他の候補のネタを聞いた訳じゃないので、相対的に彼が一番面白かったかどうかわからないけど、審査員は難しい判断をしなければならなかったんじゃないかなと、思ってる。
もちろん彼のことを応援している。これからも頑張ってほしい。同じ目にハンデを持つものとして、俺にもできることを探そう。
世の中に出て行く。それは勇気のいることだ。批判をおそれず前にでる。戦うマイノリティの人々に敬意を。
知らない言葉に
時々やっている漢字クロスワードで、知らない言葉に出会う。詩人としては知らない言葉なんてないはずだし、あってはならないことだ。なんていっても、科学系の言葉なぞは時々わからない言葉も出てくるのだが。
今日は生成化育と言う言葉を知った。どうやら合気道が発祥の言葉らしい。そういうおいしい言葉を見つけて、金儲けに結びつける輩もいて、ネットの中は相変わらず、狐と狸の化かし合いみたいなんだけど。
生成化育の意味は自然は万物の生成化育をしており、すべての動植物を、地球を生み育てていると言う意味。生まれたものは、めいめいが自然(宇宙)とつながって役割と目的を与えられています。と説明書きがあった。
そこからなにやら怪しき理論に発展するものもあったりして、宗教的な何かを感じて、うーん、どうなんでしょうって思ってしまった。
競争社会、闘争心、そういったものは結局のところ自分に跳ね返ってきて、自分が苦しい思いをすると言っている。それは同意。だから愛でもって色んなものに接し、愛でもって答えてもらう。そういう世の中の方が生きやすいんじゃないかということだ。理想はそうだろうね。しかし現実社会は微妙なバランスの中で動いている。勝ち組なる言葉もある。と言うことは負け組もいると言うことだ。競争社会に打ち勝ち、立身出世して、豪邸に住むことが、現代のゴールなら、勝ち負けもあるだろう。その中で幸せを築くことも可能だろう。
生成化育は自分を伸ばせと説く。人と人のつながりの中で、自分を磨くことが最終目標だという。人だけじゃなくすべての動植物はつながっていて・・・・・・。
人の心の奥に潜む欲望、それは無限ではてしなく、いろいろな形を変えて現れ、だれも逃れようがないと思えるときがある。愛、欲望、現代はそれらがどちらも、過剰に存在してるように思える。
油絵を描く
昨日ようやく高級油絵セットをひもとき、キャンバスに向かってリンゴと酒瓶を描いた。とにかく上手に描こうってのは全くなくて、ただはやく絵が描きたい、それだけで下絵をささっと済ませて、パレットに絵の具をぶちまけて下塗りと輪郭線を描いた。あまり色がよくわからないので、嫁に少し聞きながら、あれやこれやと描いて、背景もパレットに出した絵の具を全部使って、塗りつぶした。最終的には金蒔絵みたいな背景にしたいなって思ってる。
写真をアップロードしようと思ったんだけど、なぜかiCloudにアクセスできないので、今日は載せれません。カラフルな背景に地味な茶色一色の輪郭線と陰だけのリンゴと瓶。しかし脳内の快楽物質がでているのがわかる。これはとても気持ちいい。油絵を描くって、気持ちいい。この高揚感は自転車以来だ。俺は生来不器用を絵に描いたような男で、アメトークでやってる絵心ない芸人にも負けないぐらい、絵なんか描けない。
だけど俺はなぜだか絵画鑑賞が趣味なんだ。ゴッホ、ミレー、モネ、ルノワールそういった印象派の絵が好きなんだ。
俺は引退したら絵を描こうと思っていた。しかし、残念なことに目の病気になった。俺は一度はすべてをあきらめたんだ。目を使うことはもうできない。こうして毎日ブログを更新しているなんて、考えただけでも、奇跡のような気がする。
あきらめきれず、あれやこれやまた、ちょっかいを出して自分の好きなことをしている。自転車はもうあまり乗ってない。本を読むのはまだまだ、無理だろう。でも絵は?なんとか描けるんじゃないか。色は実際の色と違うかもしれないし、陰の付け方もおかしなものになるだろう。だけど、誰がそんなこと気にする。俺が自己満足だけの為に描く絵に正確であることや、現実的であることなど必要だろうか。うまく描くことにこしたことはないが、俺が好きなのはゴッホだ。情念が絵に乗り移っていればそれでいい。
なぜか
3月の初めだというのに
春みたいに暖かく すっきりと晴れわたっている
でも我が家はあまりにゴミゴミと
新聞、チラシ、衣類、ペットボトル、学校の書類、メモ、手帳、ゲーム、その他ゴミが溜まっていたので
季節外れの大掃除となりました
人が住んでいると、物がたまる
誰も捨てない、貧乏性なのか
まず床の上、そのあとテーブルの上に移って
いるもの、いらないものを
小須田部長方式で分けていく
たまに懐かしいものに出会う時もある
去年受けた漢検で、嫁が単語カードを
たくさん作って、覚えていた
もういらんだろう
今は小休止でコーヒータイムだ
本当ならば今頃、イーゼルに向かってデッサンなんぞして、悦にいってる感じだったのに
それにしても暖かく
雲一つなく晴れ渡っていることだよ
なんじゃ、こりゃ…
滝川英治氏
事故のこと今知りました。同じ自転車事故で後遺症を患った人間として、とても興味深く記事を読ませてもらいました。
滝川さんは僕の大学の後輩ですね。知りませんでした。というか失礼ながら今始めてお名前を知りました。脊椎損傷、弱虫ペダル・・・・・・。自転車乗りにはやはり危険がついて回るのでしょうか。それともただ取り上げられやすい存在なのでしょうか。バイク乗り、歩行者、自動車、馬そういった乗り物と比べて本当に自転車はより危険な乗り物なのでしょうか。誰かデータありませんか。
僕は失明しました。今は少し回復して人の半分ぐらいの視力、見え方ができるのでしょうか。その代わりにたくさん薬を飲みます。再発防止のために。
滝川さんはリハビリに頑張っているようですね。左手が少し動き、右手の感覚が戻ったようですね。よかったです。999年分泣いたとおっしゃてたみたいですね。僕は病院の廊下を嫁に手を引かれながらよく歩いていました。僕はアスリートで運動したかったから、それに病院では目が不自由だとあまり、時間がたたないから。
嫁と廊下を散歩しながら、僕もよく泣きました。僕にもやりたいことがたくさんあったんだ。子供も小さくて僕はこれからたくさん子供と遊ぼうと思ってたんです。でもそれができなくなった、と当時は思いました。
退院して家に帰ったときに大きな文字で「お父さん、お帰りなさい」と張り紙がありました。僕はまた泣きました。もう君のお父さんは昔のお父さんではない。あの陽気で楽しかったお父さんではないのだと。
嫁は心配することはないと言いました。あなたがどんな風に変わっても、あなたが父親であることは違いないし、子供達も少しずつ変わっていくお父さんを受け入れてくれるだろうと。また、少しずつ関係を深めていけばいいと彼女は言ったんです。
社会に復帰しても病気を理解してもらえないし、自分の思うように何も進まない。それは健康であっても変わらないことなのかもしれないけれど、僕はそれを病気と結びつけて考えてしまう。自分にできることは限られていて、そこを越えると他人に頼らざるを得ない。それが面はゆくもあるし、悲しくもある。
滝川さんは僕よりも症状が重いようだけれど、僕は親近感を感じます。勝手ながら応援させていただきます。
僕ももうあれから5年はたったでしょうか。手足のしびれはなくなってきつつあります。もし読書ができる状態ならリンカーン・ライムシリーズを読んでみてください。僕はまだちゃんと目が見えていた頃に読みましたが、ライムもまた神経損傷して車いすにのる夢のような存在です。
医者はあきらめろっていいました。僕はあきらめたわけじゃありません。ただ戦ってもいません。毎日できることを少しずつ積み重ねて、たどり着くところは風にまかせて、嫁にまかせて、色んな人にまかせてます。
嫉妬かしら
- 今週のお題「ひな祭り」
- ウチは男兄弟だったので娘ができたとき、これでひな祭りと縁ができて、雛人形とか飾って、子供と共に成長するのかなって思った。
- だけど嫁は子供が小さいうちは絶対に買おうとしなかった。理由は壊すから、だった。ジジ、ババが金を出すと言っても聞かず、小学校に上がるぐらいまで、うちの子は幼稚園で作る紙のヤツだったり、スーパーで売ってるオモチャの雛人形だった。
- 娘が小学校に上がってやっとちゃんとしたものを買おうってことになって、松屋町に嫁と子供とジジババで買いに行った。俺は不参加だった。テレビでCMしているお店でお雛様とお内裏様二人のガラスケース入りのヤツを買った。
- 何年かはちゃんと出して飾ってたのだけど、娘に興味がなくなったのか、俺の病気のせいでばたばたして、家庭がすさんでいったのか知らないが、ひな祭りでも出さなくなった。それはとてももったいないし、彼女も出そうと言わない。大きな段ボールの中にしまったままだ。
- 彼女は中学校3年間ほとんど学校に行かず、不登校だった。精神的に難しい時期を過ごしていた。ひな祭り気分ではなかったのだろうと思う。
- 今はいい学校に恵まれちゃんと行くようになり、テストもクラス一位になったりして、しっかり頑張っている、と思う。よかったよ。
- 雛人形が象徴しているものが何かわからないけど、公家や上流階級の文化なんだろうか。我が家は今のところ、日々の暮らしで精一杯だよ。文化度としてはやっと始まったばかりぐらいだね。
- 嫁はなぜ頑なに娘が小さいころ、雛人形を買わなかったのだろうか。彼女の幼少期のなにかトラウマなのだろうか。彼女は一度失敗したことは二度とやろうとしない。それは時は有効でそういう選択もあると思うが、同じ失敗を重ねることで見えてくる世界もあると思う、真相はわからない。
- でも今年もその立派な雛人形は娘の部屋の押入にしまったままだ。明日はちらし寿司が出てくるのだろうか・・・・・・