ブルースギター

どういう人が選曲しているのか知らないが、スティーヴィー・レイ・ヴォーンから引っ張ってきたプレイリストでかかってるのがブルースギタリストみたいな縛りなのだ。

クラプトン、ジミヘン、クリーム、オールマンブラザーズ、Tボーンウォーカー、ジョン・メイオール、アルバート・キング、B・B・キング、ZZトップ、ゲイリー・ムーアなど。

ちょっと亜流な人もいるけれど、ゴリゴリの人もいてたり、あの人は?的な人がいてなかったり、結構聞いてて新鮮な感じでもある。知らない曲も知ってる曲もあるけれど、レイ・ヴォーンのギターだけはイントロですぐそれとわかる音色やね。あんまり曲によって、アルバムによって音をいじってないんやろうね。それと活動期間の短さが原因やろう。

同じグループの人達の音楽を聴くっていうのがこんなに良いもんだとは思わなかった。同じアーティストを続けて聞いていると飽きてくるけど、違う人の曲を挟むことでなんか、おもしろさが増す。

また俺の音楽の旅が始まりそうで、これはヤバい。

ミュージック

もちろん音楽なしでは生きれない。無料音楽アプリを落とした。良いような悪いような洋楽の試し聞きするには良いんじゃない。

音楽はすべてつながっていて、気に入ったアーティストから芋づる式に次々に出てくる新しい音楽。それは年代や形式にとらわれず、音の塊で僕の耳を過ぎていく。

誰もが評論家になる。そんな気がする。機械が人間を変えていく。好きな音楽が爆発し、誰も彼も何もかも手に入れたような気になる。

ああ、またため息ばかりだ。なんだ今日は。いいことばかりありゃしない。

ラジオガガ

今週のお題「私の癒やし」

病気して以来ラジオを愛聴している。テレビは作り込みが激しく、素朴な味わいがなくなったように思う。その点ラジオはまだ庶民の楽しみというか、気軽に聞きながら、なおかつ面白いという番組が多いし、リスナー参加型の番組も多いので、ホッと一息つくには良いものだと思う。

テレビはプロの作り手、芸人さん、役者さん、アナウンサー、その他裏方さんが計算し尽くして作ってる感じで、面白いものもあるし、見ることももあるのだけど、情報量が多すぎるものや、あざといものは見てて、疲れたり嫌な気分になったりするのだ。

最初はポッドキャストから入って、ジャンクやらオールナイトやらを聞いていたのだが、今でも一番聞いているのはTBSラジオ「たまむすび」だ。赤江珠緒さんがメインだったんだけど今は産休で休んでいて、TBS系のアナウンサーが日替わりでMCを務めている。高山さんと大沢君の話はこのラジオで取り上げられた。

たまむすびは情報番組でもないし、ワイドショー的な番組でもない。お笑い番組に近いと思うけど、真面目すぎず、フザケすぎず、距離感が絶妙で聞いてていいかんじなんだ。作り手はそういう距離感になるように苦労して演出してるのだろうけど、それを感じさせないのも、良いと思う。だからかえってスキルの高いアナウンサーの曜日は、なんだかよその家に急にあがって一緒にご飯食べなくちゃならなくなった晩みたいに、視点が定まらないように思う。

産休の前は珠ちゃんが月~木でやっていて金曜日は小林悠で、ナタリーは例の件でいなくなってそのときは、寂しさをかんじた。珠ちゃんはほんとに素敵な人でポンコツ工場長と呼ばれているが、こういう世の中だからその素朴さがかえっていい味になってる番組なんです。

珠ちゃんは今は時々電話で出演して、訳の分からないオリジナル子守歌なんぞ披露していますが、早く復帰してみんなを癒してほしいです。

食べ合わせ

今日は選挙なのでDVDを2本借りて観た。「ショーシャンクの空に」と「ロッキーホラーショー」を借りた。これを同時に借りて続けてみると頭が混乱する。

ショーシャンクの空に」は言わずと知れた感動のヒューマンドラマ。「ロッキーホラーショー」は感動とは無縁なハチャメチャロックミュージカルだ。

俺はあんまり知らずに2本を借り続けてみた。今俺はどういう気持ちでいればいいのか混乱している。ああまじめにこつこつ自分の持ってる能力を生かして時に他人に頼り時に他人を助け、組織の渦に巻き込まれながら知恵と度胸で勝負する。そんな人生観を描いていたんだけど、ロッキーホラーショーを観て、何かまじめに考えるのがばからしくなって、もうどうでもいいや、楽しけりゃ、人生なんて所詮そんなもの的な思いを考えるようになってしまって、どっちやねんと自分の中でつっこんでいます。

おそらくどっちもあんまり良くなくて、それなりにそこそこって言うのが一番落ち着くとこなんだろうけど、この両極端なイメージでは気持ちの落としどころが難しい。

時に真面目に時にフザケてそれで毎日過ごすのがええところなんやろうね。

ヘルプ!

布団に横になると不安になる

なぜだろう

呼吸が浅くなり

鼓動が早くなる

考えることをやめる

何か他のものに集中する

楽しいことは何一つ思いつかない

さっきまでテレビを見ていた

よく見えず目が疲れる

明るすぎてだめだ

大きく呼吸し心を水平にしよう

明日がまたやってくる

フィリップ・k・ディック

昔俺は読書家だった。大学の授業でフィリップ・k・ディックの本が取り上げられ、授業の前にフィリップ・k・ディックの本を読んだことがある人は、と先生が言い手を挙げたのは僕一人だった。俺は何か恥ずかしさと同時に優越感も感じた。

俺が読んでいた本は「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」という短編集で、映画「ブレードランナー」の原作である。俺がそれを読んでいた理由はまさしくブレードランナーの原作を読むために買ったのだ。

映画を見てから読んだのだろうと思う。映画を見た感想はまったくわけのわからん映画だと思った記憶がある。少なくとも原作を読んでいればまったく訳が分からんと言うようなことはなかっただろう。芸術性の高い作品は往々にして難解になりがちだ。それは作品がある程度見る人の教養や想像力に委ねられていて、様々な解釈ができるように作られているからだ。

2001年宇宙の旅」を見たときもあんまり意味が分からんかった。アーサー・C・クラークの原作を読んで、なるほどと腑に落ちたところがたくさんあった。映画と本ではだいぶ違うという話もあるが、世界観がよくわからんっていうことはなくなった。

ロボット、アンドロイド、レプリカント呼び方は何でもいいんだけど、心をもった人工物はもはや人間ではないのか、人間との違いを明確にするものを何か設定することで、映画や小説では葛藤、心の揺らぎを生み出している。昔からあるテーマなんだけどAIが進化することで、近年現実味が増してきた。もっともっと人工知能は人間に近づいていくだろう。そのとき俺はどうする?

俺は昭和の人間でリベラルに考えるよういつも心がけているが、行動様式は保守的だ。ハンバーグ、カレー、オムライス・・・・・・。ロボットに投票権を・・・・・・。と言う時代になるかもしれない。

らもさんだったらどういうだろう。いいんだぜっていうだろうか。なんか言いそうな気がする。良いロボットもいれば悪いロボットもいるさ。ぐらいなのかな。俺はまだそこまでいってないな。

素晴らしい

素晴らしい。今週は記事を書いてないとはいえアクセス数が5だ。日本一の不人気ブログを目指して毎日研鑽を積んでいる甲斐があるというものだ。今日のテーマを何にしようかと思っていたけれど、アクセスがないというのは、素敵なことなので、思わず書いてしまった。

誰に仕えるかというのは、大変に難しい問題だ。会社員としてどんな風に身を施すかそれが難しいと感じる。上にあがればより権力を得るけれど、より圧力もかかってくるし、責任も重くなる。大きな組織というのはどうしたものか、常に台風が吹き荒れて一個人なんて吹けば飛ぶような存在で、その中で自尊心を保ち、かつ仕事をそつなくこなし、媚びず、あらがわず、あきらめず、となると相当の人間的な資質がいる。人間力というのは危ういバランスの上に成り立っており、寄らば切るといった鋭さと、汝隣人を愛せよという優しさを、同時に感じさせそれが嘘っぽくない人間でなくてはならない。

フィリップ・マーロウの台詞通り。「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく意味はない」そういうことだ。しかし最近は「金がなければ生きていけない。ギムレットなんて飲んだことない」そんな風に思う日が時々ある。もう一つマーロウの台詞で「撃っていいのは、撃たれる覚悟のある奴だけだ」と言うのを見つけた。撃たれる覚悟というのは比喩で、自分の生き方が時に死に値すると感じることかな。

人は一人では生きていけない。もちろん。それはわかっているのだが、どうにも不器用なのだ。詩人なのだから、俺をどこに連れて行こうと言うのだ。むかし書いた詩に「オールを失ったボートのように海を漂っている」と書いたことがある。今もまだ漂ったままなのだろうか。

病気が俺を変えてしまった。そんな事を思う。病気のせいにはしたくない。生きることを楽しむ余裕が今はないような気がする。弱気やな。そういえばスペンサーがポール・ジャコミンに「自己に対する気配りの過剰」って言われてたな。なんの作品だったか。

せめてもう一度ちゃんと本を読みたいものだ。