充電しなきゃ

今日は腕時計がない。以前ここに書いたウェアラブルウォッチでガーミン235Jという代物だ。気に入って毎日つけているが、今日は充電ができてなくて、家に置いてきた。

よくできた時計でいろんなことを教えてくれる。メールが来ても通信が来ても、電話がかかってきても教えてくれる。1時間じっとしてたら「MOVE」ってでる。

近頃はなんでも充電式で便利だと思うときもあるし、不便だと思うときもある。相対的には便利になったのだろうが、家に帰って三つも四つも充電しなきゃならない暮らしって、一体どういう暮らしなのだろうかと思うときもある。

毎日充電する必要がないものも毎日充電機に突っ込むからだろうか。いや、そうでもないね。携帯もタブレットも腕時計もイヤホンも毎日使うものだから、毎日充電しないと、今回の腕時計みたいに充電切れになる。

そう考えると持ち歩く家電の数が異常に多いのかもしれん。昔のウォークマンとか乾電池やったっけ。忘れた。

ひょっとすると俺たちは、家電メーカーや電気屋に騙されているのかもしれん。便利ですよ、便利ですよと、言われ、際限なく、家電を増やし、複雑な、充電器だらけの、数字とデータだらけの生活に、追い込まれてるのかもしれん。

プラド美術館

兵庫県立美術館プラド美術館展をやっている。昨日NHKの「プラド美術館展」の再放送を見ていたところだった。

会社で仲のいい役員の大学の先輩と話をしていて、その人は俺が絵を描いていると言うことを知っていて、今来てるで「プラド美術館」と教えてくれたのだ。

プラド美術館といえばベラスケスの話になり、その役員さんも絵が好きらしいのだ。当然ベラスケスの「ラス・メニーナス」の話になって、今回は来てないんだよ、と言っていた。

もちろん「ラス・メニーナス」がプラド美術館から外へ出ることはない。

いま、ウィキの「ラス・メニーナス」の解説をつらつらと読んでいたが何やら難しげなことが書かれてあった。ベラスケスはたしかに見る人のことをいろいろ考えて描いたみたいだけれど、それで後の解説者なりがあーだこーだいうものだから、みんな複雑に考えるのじゃないかしらとも思う。

とにかく頭で絵を見るのではなく目で肌で絵を感じることが大切だろう。だから今度、時間があるときにプラド美術館展に行き、画家の中の画家ベラスケスと対面したい。

発注を受けた

絵を描いている。と知り合いに言ったら、かいてくれ、と言う話になった。

今まで自分の好きな絵の模写だったり、写真だったりを描いてきたけれど、今度はそうじゃない。どうしようか。

俺なりに描けばいいのだろうけど、主題が小さくてちょっとどうかしらと思うような気がするのだ。

あとは子供の写真が送られてきた。こちらはそれなりに描けるだろう。

うむ一応お金をもらう予定になっている。ちゃんと描かなければならない。そう意味では気が引き締まる思いだが、普段の仕事もお金をもらっているのだが、慣れ過ぎていてそんな、緊張したりしない。

二枚描いていくらにするとか、決めてない。俺は大体一枚二千円ぐらいかなって思っている。似顔絵描きの皆さんは、いったいいくらもらっているのだろうか。

最近自分でもまあまあ描けてきたかなと、思ってきたところなので、挑戦しがいがあると言うものだ。

仲間たち

息子がぜっさん不登校中なのだけど、学校に行けないというお友達が今朝きて、我が家に転がり込んできた。家にもいれないし、学校にも行けないと言う。

俺はその子が来たときは走っているときだったので詳細を後で嫁から聞いたのだが、昨日もきたらしい。うちの子はもう一年以上行ってないから、しかも上の姉も3年間ほとんどいかなかったので、もう慣れたものだ。

彼はまだ不登校初心者で、うちの子はgベテランだから頼ってきたのだろう。しかしまよそ様の子供を勝手にかくまうわけにはいかないので、学校に連絡してとにかく、二人とも預けたらしい。

昼前に子供は帰ってきた。彼は疲れたと言っていた。そりゃそうだ。君は1日30メートルぐらいしか動かないからね。

それはそうとして不登校のベテランの親としては早く復学して勉強しろと、言いたいのだが、彼らは一様に傷つきやすく、ナイーブで自己嫌悪と自己憐憫の間でゆれていて、ひどく扱いにくのだ。

ベテランの不登校の親としてはできることは少ない。これは個人の問題ではない。社会問題なのだ。極度に合理化、拝金主義が生んだ社会問題なのだ。

彼らが今の状況から出るために、やらなければならないことがたくさんある。しかし結局のところ本人は四角い箱の中から出てこれない。四角い箱は現実ではないのだが

ロンドンコーリング

絵を描いた。クラッシュのサードアルバム「London calling」だ。文字のところはピンクと緑だけれど、写真は白黒だ。

油絵で白黒だと味気ない。水墨画じゃないんだから。油絵独特の光沢がない。光と影しかない。この写真自体は大変よくできている。パンクの象徴であり、ロックの象徴であると思う。

ロックという音楽が持つ、怒りや悲しみや寂しさをうまく一枚の写真に収めている。

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これはおれが描いた絵ではなく写真の方だ。音楽と写真がうまく溶け合っていて、素晴らしい。だからこそこのジャケットを描いたんだけど…ベースのポール・シムノンはこの日の演奏が不調で八つ当たりしたと、今見たブログに書いてあった。

描いてて思ったのは、手足が長いということだ。細く見える。そして繊細に見える。だから傷つきやすくも見える。

多分だけど、二度と白黒の絵は描かない。油絵は白黒には向かないと思う。

 

 

 

太陽と海と山と

神戸に来た

今日は暑くて日差しが強い

海のそばまで山があって

それが当たり前みたいに

海風が吹き付ける

芝生の緑が映えてコントラストを作り出す

早起きしたので少しうとうとしながら

娘が歩きまわるのを見ていた

おおきくなったものだ

こんなにも青い空だというのに

お前はどこに行こうというのだ

しばらく立ち止まって

空と山と海と見るがいい

終わりもなく始まりもない

理由もないし、原因もない

感じて言葉にすればいい

 

帰りにソフトクリームでも買って食べよう

くちのまわりを真っ白にしながら

真面目な話

嘘をついた。

生来嘘が苦手で、他人を気遣うためにでも嘘がつけない。頭の回転が鈍いのだ。自分を守るためにも、どうも嘘が嘘を呼んで、首が回らなくなるのが嫌なのだ。

頭が悪いと、嘘がつけない。俺はだから天然だと言われ、空気が読めず、集団行動に向いていない。

もう自転車には乗ってないと、会社の偉い人に嘘を言った。偉い人は自分の会社の人間が怪我や病気をするのが嫌みたいで、バイクなども基本的に乗るなと言われる。その偉いさんは真面目でいい人すぎるんだ。

俺は自転車で数回こけて、骨折したり入院したり会社に迷惑をかけた。俺はロードバイク乗りだったんだ。

実際のところ、通勤には自転車を使っている。そして昔の自転車仲間と半年に一度くらいツーリングに出る。

でも俺はもう乗ってないといった。徒歩で通勤しているといった。俺はもう逃げ道がない。出世する気は無いが、嘘がバレる直属の上司とか可愛がってもらっている人に迷惑がかかる。

しかし生きているだけでどんどん、歩いて行く道が細くなってるような感覚に襲われる。

些細な嘘で人を幸せに出来るような、そんな気の利いた人間になりたい。