文化の厚み

kai松方幸次郎の絵画コレクションの話を、テレビで見た。僕は何となくだがこの人に共感し、文化の厚みが人を人間をより良くするという、感性に頷いていた。教育というのは学問的な部分だけでは、ただ知識やうんちくを垂れ流す嫌な奴に成り下がってしまうが、そこに文化的な厚みが加わると、その学問や知識がより人間のため人間らしく使われるように思う。

具体的に文化の厚みとはなんぞ、という話になると少し難しくなる。僕は日本古来の文化というか、物言わぬ、寡黙な日本人が好きだ。人付き合いの苦手な引っ込み思案の日本人。そんな日本人にシンパシーを感じる。今は何もかもがアメリカ製で心の中までアメリカ製で、というかコンピューターでできていて、それはそれでいいのかもしれんが、コンピューターという文化はできてまだ、二,三十年そこそこなのだから、成熟度としてはエラく下で各国固有の文化の方がより厚く、そしてそれを受け継ぎ勉強し守ることそのものが、人間味を作り出すのだろう。

ヨーロッパで印象派の絵画を買い集め、日本に紹介しようとした松方幸次郎はバロックロココの絵画ではなく、印象派に人間回帰の想いを寄せたののだろう。お金持ちの道楽としての絵画ではなく庶民の文化としての絵画を普及させて文化の厚みを増そうとした。

絵を見ること、本を読むことは、他者の理解を助ける。もちろんわかった風になる事も多いけど、ぜんぜん知ろうとしないよりもいい。他者の文化も理解した上で人とつきあうのだ。

いつもかくことだけど、今は自分の主張ばかりで自己保身にみなしがみついている。エリート主義ばかりが台頭し、一般人はカス扱いだ。

情報を選べるようになった僕らは、マスコミを脅して聞きたくないことを拒んでいる。それじゃだめだ。ゴッホを読み、ダ・ヴィンチを歌い、ジョン・ウイリアムズを観て、宮沢賢治を奏でるんだ。