携帯電話
下の子供が中1になり、携帯電話デビューした。ますます我が家はオタク家族として、世間から孤立しこっそりと、ひっそりと生きていく羽目になるだろう。
俺はいわゆる常識人ではない。なぜなら人より遙かに賢いからだ。だから世間の常識がばかばかしく思えて仕方ないのだ。でもそういう人っていっぱいいると思うけど。でもうまく世間と折り合うほどの、懐の深さがないのだ。嫁は「私はそんなに賢くないけど、一番常識があるという。」嫁が常識人かどうかはともかく、人は何か欠落が大きいほど、人間としての味や、悲しみ、喜びに精通するように思う。賢いというのは中途半端ではしんどいだけなのだ。遙かに突き抜けないと大人になれなくて、子供のままでもいれなくて、政治に巻き込まれてすり減っていくしかないのだ。
ウチの子供たちは悩み多き人生を送るのかもしれない。でもやりたいことを見つけて、一生懸命生きてくれれば俺はそれで十分だと思う。携帯電話は難しい。知識だけは詰まっているが、人間が使うにはあんまりにも情報が煩雑で、みな右往左往してるじゃないか。
それでも下の子だけもってないのは、あんまりかわいそうだったので持たしてあげたんだが。ゲームばっかするんやろうな・・・
職業
何になりたいか。それは重要な問題でもある。自分のなりたいものになるというのは、一見とても幸福そうだ。しかしどの職業についても適正、非適正、嫌なこと、いいこと、いろいろあるわけで、夢を見るのはいいことだし応援したいと思う。でも職業もまたなった時がゴールではなく、その職業に就いたときがスタートであり、苦労が始まると思って間違いない。そして職業的スキルよりも人間的スキルを求められ、いわゆる常識力がものをいう社会構造になっている。
職業的スキルが桁はずれて抜きんでていれば、多少のワガママは通るかもしれないけど、そうでないなら社会の複雑なシステムを受け入れる準備をしていたほうがよい。
結局何をしても同じで、だから好きなことをしたいのだけれど、お金を産まないので何とかやりくりしなきゃならない。俺の時間には限りがあるし、目もあんまり見えないし。
サラリーマンになりたい、そういう子供はどういう意味でサラリーマンを見ているのだろうか。自分の親?テレビの中?サラリーマンでも日雇い人夫でも社長でも、それなりに苦労はせなあかんよ。残念ながら
シャッフル
iPhoneに入ってる音楽をシャッフルで聴く。久しく聴いてなかった曲がかかり、おお、と思う。Coccoのポロメリアを聴いてしみじみいい曲だなって思ったり、ノラジョーンズのブルーヘブンを聴いてかっこいいなあ、と思ったり、自分の中でイントロ当てクイズをしてみたり、俺はほとんどCDを買う派なので、あんまりレンタルのやつはない。
昔は洋楽がほとんどだったけど最近は邦楽とジャズが増えてきて、どれも拮抗してる。アルバムを一枚通して聴くのが好きなのだけれど、シャッフルもなかなかいいもんですね。
レンタルだと一枚のありがたみというか、そういうのがないので聞き込むことが少なくなった。流し聴きみたいになって、作ってる人に申し訳ないきもする。アレンジが気になるほうなので、ベースだけ注目して聴いてみたり、バスドラの入り方を聴いてみたり、コード進行を追ってみたりと、そんなじっくり聴くことも少なくなった。
ミキシングがボーカルよりのやつはどうも歌謡曲に近づくので、おもしろくない。個人的にはリズム隊やギターのカッティングが前にきてるほうが好きなんだけど。
歌詞は大事だけどあんまり英語力がないのですぐにはぱっとわからない。でもメロディがきれいで、リフがかっこよければいいんだけど。「悪魔を憐れむ歌」みたいな引っかかりがいいね。
俺の歌を聴け
今週のお題「カラオケの十八番」
俺の歌を聴け、なんて書くと某有名作家のデビュー作みたいで気が引けるが、カラオケに望む態度としてはそういう感じで歌うひとがいてますよね。ほとんど歌わない人もいるし、カラオケの楽しみかたって人それぞれだとは思うんですが、僕はどちらかというと陶酔型なので、入りこんでしまって自己完結するんです。
僕はフレディ・マーキュリーの生まれ変わりなので、もちろん歌う曲は「ボヘミアン・ラプソディ」ですね。もちろん、立ち上がって画面見ないで、座ってる人のほうを向いて歌うんです。「母さん、俺人を殺しちまった・・・ガリレオ、ガリレオ・・・」オペラ的な要素もばっちり歌い込んで、一人で何役もやるのは、結構大変なんだけど、慣れてしまったし、もう25年ぐらい歌ってるし・・・。
初めて歌ったのは軽音部の夏合宿で宴会バンドをやることになって俺は当時ベーシストだったんだけど、ボーカルになってマジックで髭を書いて、オールバックにして、ビールの海の中「ボヘミアン・ラプソディ」を歌ったんだ。フルチンで・・・。
もちろんフルチンで歌う必然性はなかったんだけど、ただ何となく合宿の打ち上げ的なバンドだったので、勢い余って脱いじゃったんだよね。脱いじゃったんだよねやあらへん。昔の話ですよ。時効。それも閉じられた空間の中だから。
だいたい軽音の女子たちは俺の祖チンを見たぐらいでは、なんともおもわない。汚いもん見せやがってと思ったんじゃなかろうか。
そういえば昔カラオケで曲に関係なくよくフルチンになってたね。そんなにたいしたものをもってるわけじゃないけど、あんまりおもしろい人間じゃなかったから、とりあえず脱いだら盛り上がるやろうという、安易な気持ちで脱いでたね。若いね。
カラオケの話じゃなくて、フルチンの話をしてしまった。
話が長い
中間管理職になって、朝礼や終礼というものをしなければならないことが増えた。話をするということは簡単ではない。くだらない話や、どうでもいい話ならいくらでもできるが、真面目な話、会社として身のある話をするとなるとどうも少し仕込みが必要になる。ネットや新聞などでぴんときた記事を自分なりに膨らまして、みんなの前で話す。まあそうすることで、予定調和の一部をうめていくわけだけけれど、みな俺の話など聞きたくはないわけで、早く終わらなかいかなって思われてる話をしなければならないのは、精神的につらい。
俺は精神論などはあまり朝礼で話したくない。連絡事項一本槍ですましたいのだ。おれは心が優しいからみんなに早く帰って欲しくて、めんどくさい精神論をぶつけることはなるべく、やめるいている。
嫁は話が長いというかあんまり上手くなく、あったことを詳細に漏らさず全部報告しようとするから、ながくなって要点がわからなくて、落ちがぼやけてしまう。誰がどうした、というところがメインなのでその核になる部分をしっかりとらえて、先に会話に終わらす。
俺自身はもうあまり他人とのコミュニケーションのためにお話しすることは少ないので、話が長くなる事はないのだけれど、家族と話してまあ、うっとおしがられているのかなと思うと、ゴメンね、と思うことがある。
ワガママを言う
俺はもうワガママを言うしかないのだ
誰がなんと言おうとこの世の中はおかしな事になっているし
それを誰も止められないし、止めようともしない
心のせまい人間かもしれないが、いろいろ手を尽くして
みんなの利益を守ってきたつもりだ
でももうそれもお終いだ
くだらないことでみんな怒っている
どうでもいいことだ、悲しい気分だ
誰も何も見えてない、このままメソメソと
世界は終わっていくのだろう
誰かが誰かを殺し、憎み、また、殺し
怒り、悲しみ、誰も彼も怒っていて、悲しんでいる
優しい気持ちでジョークを言っても、怒ってばかりで
話にならない
俺はもうワガママを言うばかりで、誰かのことを真剣に考えたり
できない。できない。できない。
思いやりを心にしまって、心に傷をおって血を流して
明日も戦うしかないんだ
そう俺はまた帰ってくるんだ
ミーアンドボギーマギー
ミーアンドボギーマギーを思って・・・。歌詞を調べた。もちろんジャニスのバージョンが有名で全米1位か何からしい。自由とは失うものが何もないこと、それが本当の自由。でも失うものが何もないって事は、さみしいことだよね・・・みたいな話。彼氏とヒッチハイクしてブルースハープでご機嫌になって、でも彼氏はどこやらで去っていって。
歌の歌詞を説明するほど無粋なことはない。守るべきもの、失いたくないものがあるからこそ、生きていくために人生を工夫し時に楽しく時には我慢を重ねて生き抜くのであって、本当に何もなくなってしまえば、自由ではあるけれどそんな、空虚な人生になんの意味がある。そうはいっても、いつもいつも満たされた良い人生をおくれるのは一部の人たちだけで、僕らのような凡人たちは、頭がおかしくなりそうな毎日をどうにか、酒を飲み、薬を飲み、嫁に愚痴を言い、子供たちを叱り飛ばし生きていくわけです。
お金で買える自由を買っても、完全には満足はできなくて多くを求めてしまうのだろう。