勉強しすぎ

昨日ゴッホ展に行った。ゴッホまるまるという展示はあんまり無いので非常によかった。寒かったけど。遠かったけど。見にくかったけど。

それにしても今回来たのが、浮世絵の模写だったこともあるのだろうけれど、浮世絵との関連性を強調し過ぎて多様におもう。ゴッホの浮世絵に関する影響はよく知られているところだし、ゴッホ自身の手紙にも日本へのあこがれがつづられて文章があるので、多大な影響はあっただろうと思う。

だけど学芸員さんは少し勉強しすぎのようだ。俺はゴッホの絵を見に行ったのに、学芸員さんの研究発表を見に行ったような気分になった。関連性もあるだろう。模写もあるだろう。日本への憧れもあるだろう。だけどゴッホの絵は魂の絵だ。色の魂だ。色がカタマリで渦を巻いて、僕たちに語りかけてくるのだ。

印象派という土台があって、浮世絵という要素もあって、そのほかの要素もあって、ゴッホの魂が描かれているのだ。第一昨日の作品の第一番目の絵はミレーの「種をまく人」の模写だった。大ぶりの木で画面を真っ二つにしていたが、種をまく人はミレーだ。印象派そのものじゃないか。

絵は感じるものだ。勉強するものじゃない。心に訴えるものがいいものだ。たくさんの絵を見て初めて感じることができるってこともあるだろう。ある意味、絵も音楽も文章も同時代じゃないと理解しづらい側面もあるだろう。今は誰もが正解を持ち、誰もが答えを持ってる時代だ。だからこそ不正解だったり、沈黙することが重要なのだ。情報は常にコントロールされている。意識的に無意識的に、政府?経済界?よくわからない。

誰も彼も何か買おうとしていると思う。何を買うのだ。俺とゴッホの魂はちょっとやそっとじゃ買えないぞ。