フィリップ・k・ディック

昔俺は読書家だった。大学の授業でフィリップ・k・ディックの本が取り上げられ、授業の前にフィリップ・k・ディックの本を読んだことがある人は、と先生が言い手を挙げたのは僕一人だった。俺は何か恥ずかしさと同時に優越感も感じた。

俺が読んでいた本は「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」という短編集で、映画「ブレードランナー」の原作である。俺がそれを読んでいた理由はまさしくブレードランナーの原作を読むために買ったのだ。

映画を見てから読んだのだろうと思う。映画を見た感想はまったくわけのわからん映画だと思った記憶がある。少なくとも原作を読んでいればまったく訳が分からんと言うようなことはなかっただろう。芸術性の高い作品は往々にして難解になりがちだ。それは作品がある程度見る人の教養や想像力に委ねられていて、様々な解釈ができるように作られているからだ。

2001年宇宙の旅」を見たときもあんまり意味が分からんかった。アーサー・C・クラークの原作を読んで、なるほどと腑に落ちたところがたくさんあった。映画と本ではだいぶ違うという話もあるが、世界観がよくわからんっていうことはなくなった。

ロボット、アンドロイド、レプリカント呼び方は何でもいいんだけど、心をもった人工物はもはや人間ではないのか、人間との違いを明確にするものを何か設定することで、映画や小説では葛藤、心の揺らぎを生み出している。昔からあるテーマなんだけどAIが進化することで、近年現実味が増してきた。もっともっと人工知能は人間に近づいていくだろう。そのとき俺はどうする?

俺は昭和の人間でリベラルに考えるよういつも心がけているが、行動様式は保守的だ。ハンバーグ、カレー、オムライス・・・・・・。ロボットに投票権を・・・・・・。と言う時代になるかもしれない。

らもさんだったらどういうだろう。いいんだぜっていうだろうか。なんか言いそうな気がする。良いロボットもいれば悪いロボットもいるさ。ぐらいなのかな。俺はまだそこまでいってないな。