初めての大型依頼

油絵を初めて一年弱、良くも悪くもたくさん描いて、修行してきました。習作をフリマサイトで販売しそこそこ、安いものなら販売できるということが、何となくわかってきました。

自分の作品はいつか描いたとは思いますが、生みの苦しみ愛着があります。だから作品が売れたときは子供を嫁に出す気分になります。

去年の冬あたりに、小品を買っていただいたお客様から、オーダーでこれこれの絵を描いてほしいというご依頼をいただきました。

結構大きなサイズのご依頼だったので自分にとっては、分不相応かもしれませんが少し大きな値段をつけさせていただきました。

それでご了解いただけると思い、作画準備に取り掛かる予定でございます。

そうはいってもあくまで利益度外視の値段でございます。材料代だけでも三割ぐらいかかっていますし、ましてや俺の作業代なんてものは、勘定に入っておりません。しかしながら、この目の不自由なおじさんの趣味の絵に対して決して安くない大金を払ってくださるということなので、やはりこちらとしても今できるすべての力を、惜しみなくささげて作品を描き上げようとおもいます

これはまた自分自身に対してのチャレンジでもあります。みごとご依頼者さまの期待に応えて、俺がやってきたことが間違ってなかったと、恥ずかしながら自己満足したいと思います

時々あること

昨日も少し小説を書いていた。どおってことない場面だったが、一時間ぐらいかけてユルユルと書いていた。

面白いと思えるセリフもいくつか思いついて、まあまあいい感じだなって思っていた。よしこれでアップして終わりにしようと、ボタンをタップしたんだ。

そう、時々あることなんだけど、ついさっきまで書いていた文章が全部消えた。俺は頭が真っ白になった。文字数にして1000字ぐらい。

けれどもこういうことは、スマホ、PC、タブレットなどで書いている人は、何度か経験があるだろう。ブログだって書いてたものを、うっかり消してしまうことがある。そういう時俺はもう忘れてしまうように、してるんだ。死んでなければ明日はくるし、もし死んでいたら消えてしまったブログのことを気にする必要もない。

次の日になれば、昨日書いたものより良いものをかける可能性がある。面白いことを思いつく時間が倍に増える。まあ大抵は、消えてしまった文章の方が良かったように記憶が操作されるのだが。

それでも5割ぐらいは、思い出せる。でもやっぱり消えた文章は、好きだった彼女みたいに俺を悩ませる。

何度でも

今週のお題「ブログ初心者に贈る言葉

日常的に文章を書くというのは、慣れていないとどうしてもおっくうになりがちだ。俺は男子だし、外で遊ぶ方が好きといえば好きなので、気が向いたときに、何かを書くというのは習慣になっていないと、何となく面倒なものだ。

ついついろくでもないビデオなりテレビなり、動画なりで時間をつぶしてしまう。そんなに書きたいことが思い浮かばないこともたたあるし、書いたところで誰かが読むわけでもない。独り言を共有してもしかたがないと、あきらめてしまう。

日記でも一行日記みたいなのもあるし、どうしても他人に見せるとなれば、力が入ってしまって長くなりがちで、だから逆に続かないということもある。

一週間に一度だけみたいなブログを昔やっていた。俺は自転車乗りで、ツーリングの話を書いていた。そういったブログも数年続けたけれど、目の病気をしてやめてしまった。

 

その頃つちかったブログの書き方みたいなもので、いまは毎日かけるようになった。つまらない内容だけれど、良いって言ってくれる人もいて、ほとんどだれも興味がないようなことでも、遠慮なくかく。長い自己紹介みたいなものかな。

こんな音楽を聴いています、こんな映画見ました、こんな物買いました、ラジオでこんなこと言ってました、嫁とこんな話ししました、あるいは仕事上でふりかかってくるストレスをどうにかやり過ごすために、抽象的に爆発したり、そういったことを、つらつらと毎日書いている。

俺の読者は大変だろう。短いとはいえ毎日更新されるのだから、読む方も大変だ。だけれどもどうでもいいようなことって、現代では大変重要なものだ。貴重なものだ。みんな一分一秒を削って合理的に生きている。本来なら何の役にも立たないブログなんぞ読む時間がもったいないと思うのだ。

誰にとっても毒にも薬にもならないブログ。アクセス数は常に0から2のあいだ。これでいいのだ。シュールとかダダイズムとかでもない。突出したところのない日常。

長くなった。今日の昼ご飯はゆず塩ラーメンとご飯だった。以上

1000を超えてた

いつの間にやらこのブログの記事も1000を超えて、今回で1003回になる。ほぼ毎日更新するので三年ぐらいやっている計算になる。長いことやっていれば、いいこともあるし、そうでないこともある。

そういえば昔やっていた自転車ブログで友達になった奈良の園芸好きの奥様はまだ、その園芸ブログを続けられていた。懐かしい思いでそのブログをのぞき、何もコメントすることもなく立ち去った。

長いこと同じところで書いているわりに、読者は少ない。無害なブログだ。だから好きなことを書いても、炎上しない。だって総アクセス数が4桁の真ん中ぐらいなんだから、1000個も記事があるのに。いかに独りよがりのブログというか、他人と共有する物が何もないブログという事がわかる。

役に立つ情報をいっさい発信しない。それだけは覚えておいておくれ。情報なんてたくさんだ。お金の話もあんまりしない。金持ちでもなければ、貧乏でもない。

誰かに表彰されることもなければ、こそこそ逃げ回って暮らさなければならないほど、後ろ暗いことがあるわけじゃない。聖人君子でもなければ極悪人でもない。と思ってるけど、他人はそうは思わないのかな。

背中がこげた半纏を着て、ファンヒーターであったまってる、小説と詩を書いて、絵を描くのがすきな、おっさんだから、今日はお休みだから、朝から少し絵を描いた。

絵をのせようと思ったが、スマホで写真を撮って、今書いてるタブレットに写真が入ってないので、また明日。

作詞家

俺は小説の中で作詞家になっている。もっといろいろなキャラクターを生み出したが、今日書かなければならないのは、売れるラブソングだ。

地下専門のソングライターがメガヒットを放つみたいな話を書いているのだが、売れるラブソングなんて書けるわけはない。

世俗とかけ離れた暮らしというか、生活というか、そう言った常識は全部置いてきた。

70年代とか80年代っぽいやつならいくらでも書けるのだが。

 

それでも無理やりひねり出して、売れたことにするしかない。自作自演もはなはだしい。

 

ラブソングもいろんな種類があるが、手を繋いだときのぬくもり、ウキウキドキドキ感を描こうとしている。

匂い。記憶。目の中の感情を美しい言葉にのせて出来るだけ頑張ってみるよ。

うまくかけたら、あなたも目にするかもしれないね。

えべっさん

関西に住んでいると、えべっさんのイベントがある。屋台がたくさん出て、子供たちはベビーカステラとか唐揚げとかを買って、楽しんでいる。

俺は今年は仕事だったので不参加だった。でもああいう大きなお祭り的なものは、精神力をたくさん使うので、空いてたら行きたいのだが。

 

高校生の頃、大晦日は友達と初詣に行っていた。夜に集合して、京都の八坂さんに行き、お参りが済んだら、電車に乗って三ノ宮まで行き、生田神社へお参りする。どちらも大変な人出でよくあんなことをやっていたと思う。

屋台がいっぱいあって楽しかったけど。

 

そのあとメリケン波止場まで歩いて行って、初日の出を見るってそういう、コースだった。海から上がってくる日の出だった。待つ間とても寒く、いつも凍えていたのを覚えている。

 

嫁がえべっさんで縁起物のストラップを買ってきた。鯛が二匹いる。携帯カバーにつけてみた。どうだろう。オヤジくさいかしら。

昔のこと

昔あげたYouTubeを会社の後輩が見た。と言っていた。ウチでちょっとした集まりをした時に、動画を撮ってあげたんだ。

別に見られて困るようなものはなにも、写ってないし、楽しげなホームパーティーに見えると思うのだが、来た人と身内で楽しむつもりでアップしたのだけれど、関係のない後輩が見たって言うのは、そしてそれを俺に言わないってのはどうだろうか。

 

誰が見てもいいのだけれど、匿名性というのはどこにもないのだろうか。皆秘密をを持っている。それは大事なものだ。だったら公にせずに、全て心に秘めておけばいいのかもしれないけど、その考えを推し進めていくと、誰にも何にも喋れなくなる。コミュニケーションとはおしゃべりすることで、たわいないことを喋って、共感しあい、心を通じ合わせることだ。

 

黙っていては、心は通わない。かといってなんでもかんでも公にしたら、もう大変な騒ぎになる。困った世の中だ。嫁でさえ俺の秘密を知りたがる。秘密は秘密のままがいい。

知らないということは、一部分ではいいことだ。特にこんな情報が氾濫している世界では。俺たちはこのインターネット上に上がっている様々な情報に踊らされている。

知識はもはや、役に立たない。IQの高い天才が世の中をコントロールしようとする。少なくとも一部は。

 

なんか陰謀論者みたいに聞こえるかもしれないが、ネット中毒者は気をつけたほうがいい。四角い画面はいろんな欲望で渦巻いている。