油絵を描く 4

しつこいようだが油絵を描いた。

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カーテンがうまくかけない。ボトルの透明な部分と、その反射の描き方がわからない。グラデーションがおかしい。

ずいぶん昔に描いたアビーロードのジャケットに四人を描き入れた。いままでは無人だった。二十年前これの色のことで嫁と喧嘩になって、描くのを止めてしまった。だから途中で終わっていたんだ。

軽くベタ塗りでさっと四人を描いた。縮尺を間違えて、かなり小人になった。これからボリュームアップするのは難しいのかしら。だいたい元が正方形のジャケットを縦長にして描くというのが、初心者のやることではない。

服の陰もなく立体感もクソもない。嫁にいわれて初めて気づいたのだけれど、顔が緑色らしい。宇宙人?アバター?ゾンビ?そんな感じだって。俺は肌色のつもりだったのに。

こういうところだよね。目が悪いってことは。微妙な色がよくわからない。

静物画の方は全体的に明るくした。初めての油絵にしてはいい出来だと思っている。

どうだろう、ネットで出品したら売れるだろうか。あら、いやだ。今日もまた金の亡者になっちゃった。

金の亡者

今月10日に初めての投資信託引き落とし日だった。それは間違いなく引き落とされていて、普通預金は一万円減っていた。だけど14日今朝になっても投資信託の口座は0円だったのでおい、ちょっと待て銀行さんよ。こいつはなにかい。新手の詐欺か何かなのか。俺は近所の支店まで行って半日がかりで手続きをしたのだ。しかも俺から進んで申し込みにいったのだ。そんな詐欺があるだろうか。

朝銀行に電話したのさ。口座の確認をしないまま。ほんで電話しながら携帯いじって、信託の口座見たら入っていたのさ。一万二円。おお、これはなんということでしょう。一日で二円増えている。魔法のような話じゃないだろうか。初めての不労所得だ。しかし実際には銀行でやりとりした時間は6時間ぐらいだから、時給千円だとすると、まだ大きくマイナスだ。しかし一万円がそう簡単に一万六千円になったりしない。そんな世の中になったら、世間はおかしくなってしまうだろう。

お金は人を変えてしまう。何もかも。いい人も悪い人もそうじゃなくなってしまう。俺でさえ投資信託なぞという破廉恥なシロモノを始める始末だ。俺に金がかかる訳じゃない。教育資金にいるんだ。

何とか他人の世話にならずに、やり過ごすことができないか考えている。今は他人の好意に甘えているが。俺は正真正銘の甲斐性なしなんだ。

一万二円が意味するものとはなにか。俺はジョン・レノンでも勝新太郎でも高倉健でもないってことだ。俺は変わってしまった。大事にしていたものを一つ放り出してしまった。それは・・・・・・わかるだろう。

自分らしさの檻の中でもがいている。そう、桜井さんあんたは、うまいことをいう。生きていくことは変わっていくことだ。俺も時には金の亡者にもなろう。

道具

道具にお金をかける。そうすると嫁は怒るのだが、いいものを買うということは、結局のところ節約にもなると思う。いい加減なものはすぐダメになる。だから俺はお金が許す限りいいものを買う。買いたい。

何がいいものなのかは、個人の主観や道具の使い道によって違ってくるとは思う。だけど一般的にいっても、個人の経験からいってもいいものは高い。

俺は職人だった。魂の入った職人だった。目の病気をするまでは。いまでも職人っぽい仕事には就いているが、魂は職人ではなくなってしまった。目が見えなくて、細部がわからなくて、職人でいることは大変難しいことだ。

職人にとって道具は命の次に大切なものだ。心を込めて扱えば必ず応えてくれる。いい道具は手になじむし、バランスがよい。疲れにくい。今はいろんなコンプライアンスのせいで、道具の選択肢がせばまってきてる。もう職人という職業でさえ、物作りの前に厚い壁が立ちはだかる。そういうのがイヤだから俺は職人になったのだが。

梅田にでてKAWACHIで筆を買った。セットに入ってなかった極細筆二本と細い筆一本。新しいちょっと大きめのキャンバス。練り消し。持ってない種類の絵の具と筆洗いようバケツ、筆洗いようオイルもかおうとしたのだが、やめた。道具を少しづつそろえていくのも楽しみの一つだ。俺は自転車の時に道具を少しづつ買い揃えていく楽しみを知った。だから、また今度来たときに少し買い足そう。夢は膨らむばかりだ。アルミ製のイーゼルも欲しい。というかやっぱアトリエが欲しいよね。自分専用の。

当然だが嫁はいい顔しない。またややこしいこと始めやがったと思っているだろう。事実始めたんだ。ややこしいことを。でも元々絵をやってたのは俺じゃない。嫁の方だ。今でもどこかに光ってちょっと斜めになってるテーブル台みたいなのが家のどこかにおいてあるはずだ。結婚したての頃、これで子供と一緒にお絵かきするといって、嫁入り道具として持ってきた。彼女は覚えてるだろうか。嫁は子供に絵を教えたことは俺の知る限りない。編み物とかは教えてたみたいだが。

いつもいうようだが人の欲望は限りがない。知ることが常に欲望につながる。無知ならば欲望とは無縁でいられる。うまく付き合うしかない。物欲と。

徒然に

色々と書くことはあるのだけれど、去年まで夢中で見てた、サイクルロードレースを今年は見ていない。なぜなら、契約を解除したからだ。スカパー!は映っていない。ネットの動画にはハイライトあたりはあがっているだろうけど、それを追いかけてみたところで・・・・・・。

はっきり言って去年はジロはスペイン語やら英語やら多言語で色々見たし、春のクラシックはまるまる英語で見た。ツールとブエルタはJSPORTSでみたけど、コンタドールも引退したし、好きな選手がいないわけじゃないけど、もうそこまで熱を入れてみようとは思わない。自転車乗りもやめて、サイクルロードレースからも卒業してしまった。

元来俺は飽き性ですぐ何か始めても適当にほっぽりだしてしまう。でも長い間ロードレース見てたね。十年以上は見てた。ランスの現役時代も知っている。栗村さんとかはもっと長い間ロードレースに関わっているのだろうけど。一つはお金の問題だね。うちの子供の学費は結構バカ高い。削れるものは削りましょう、と思いきって辞めてしまった。

それとこれは何処の世界にもあることだけど、政治的な様々な問題が噴出すること。フルームの問題。DAZNの問題。一つのところで中継してないなんて考えられない。テレビ業界とネット業界、自転車業界そのものも、お金に絡むさまざまな問題に、振り回されている。それは一個人がなんとかできる問題じゃないだろうけど、最終的に迷惑を被るのは視聴者、サイクルロードレースファンで、もうそういうのってほとほといい加減やめてほしい。

そういう政治的なごたごたは会社の中だけで十分だ。プライベートまでしょうもないごたごたに巻き込まれていたら、頭がおかしくなっちまう。それでなくても毎日精神安定剤を服用し、心穏やかに過ごすことに、苦労しているのに。

いいこともある。毎年何時間もサイクルロードレースを見ていた。その時間が他の時間に振り替えれる。テレビは目が疲れる。その分目も休ませられる。

天高くマドレーヌやクロワドフェールに登り、俺は落ちてしまった。

油絵を描く 3


f:id:samuiottyann:20180311192536j:image続きを描いた。前回はとても満足いく内容ではなかったが、今回はそれなりによく描けたと思う。ボトルのラベルのところと、リンゴの枝の陰をつけた。それだけでぐっと、良くなったと思うが、嫁にハイテンションで見せていいじゃろみたいな、アピールしたら、面倒くせみたいな顔された。実際面倒くさいとは思うが。
ボトルネックのところのハイライトと背景のカーテンらしきものも描いたのだけれど、カーテンらしきものはうまくいかなかった。また描き直そう。

テーブルの茶色をしっかりと塗り直した。マットな質感がでて良くなったと思う。

うーん、もっと目が良かったら、いいのに・・・・・・。実際の色がよくわからんし、塗ってる色もだいたいやから。それでええのんか。すきに描いたらええやん。と嫁は言うけど、初心者のおっちゃんはようわからんのや。

でも、だいぶ油絵っぽくなってきて俺はすごく楽しい。

変化

OREH今日向かいの人が変わっていくことについて話していた。人は変わっていかなくちゃならない。いつまでも同じでいるということは、成長しない、子供のままだということだ。

時代が怖ろしい勢いで変わっていく。その中で会社員、中間管理職である僕も役割が日々高度に複雑に、現代社会に対応するように、変わっていかざるを得ない。とにかく情報を駆使し、頭を働かせ、計画を立て、実行し、見直し、そういった作業を行わなければならない。

だが少し待て。俺はもう時代遅れの男なんだ。昭和の男。高倉健を頂点として、寡黙で非合理的な生き方をする男。そういう美学なのだ。

現代では時間を効率的に使い、スマートな仕事をする人々が現れ、有給を取得し、家族サービスをし、余暇を楽しむ。そんな人々が増えている。それはそれでいい。

俺は70年代後半から80年代に書かれたハードボイルドに非常に影響を受けて育った。スペンサー、マット・スカダー、ハリー・ボッシュ。組織、反権力、自立心、自尊心、そういったヘミングウェイ的な価値観にどっぷりと浸かり、抜け出せない。

と言うか抜け出す気がない。それは俺が変化を嫌っているということだ。俺は美しい心というものの存在を信じている。無償の愛。なぜ?と聞かれてスペンサーは「気分がいい」と答えた。そう無償の愛は気分がいいのだ。

もう思い出せなくなった、ポール・ジャコミンとの会話。人は常に判断を迫られる。スペンサーもマット・スカダーもあっちつつき、こっちつつきして答えを出していた。常に他人は嘘を付くが、どこかで辻褄があわなくなる。

このあいだ書いたAAの言葉。自分に変えれるものを変えれる勇気と、変えられないものを受け入れる冷静さを、そしてそれらを識別する知恵を与えたまえ・・・・・・。

そう愛という価値観も大きく変わっていく。昭和世代の愛はもっとストイックで不器用だった。今は何でもアメリカ式でサプライズ、奉仕、そういった愛が溢れている。日本はいつからアメリカになったのだろう。

俺の一部は常に変化していく、それは老いだったり、立場だったり、仕方の無いものだ。でも大切にしている価値観までは変えられないし、変えたくない。それは俺が昭和の男だからだ。

油絵を描く 2

今日はこのあいだの続きを描いた。
f:id:samuiottyann:20180309151125j:imageとても難しい。やっぱり現状の視力、見え方では現実的な色というのがわからない。もちろんリアルに描くことが目標ではないけれど、やっぱり欲が出てくる。でも描いてる色がよくわからない。
見えてる色と描いてる色を近づけることをしたい。

立体感は難しい。油絵は塗り絵ではない。それはわかっている。やっぱりデッサンをもうちょっとちゃんとやらんといかんのだろう。

リンゴはなんとかまあまあ、納得いくような気がする。問題は瓶だ瓶をどう描くかだ。本気で油絵教室に行こうか。基本が大事。それはわかっている。絵心もない。色もわからない。

背景を濃い緑にした。そして下をテーブルの茶にした。それだけでも俺にとってはぐっと良くなった。

 

現実はあまりにも不鮮明で俺の心の、遠くにぽつんとある。

俺はなんとか明日へとたどり着き、理由無き存在を模索するのだろう。