政治

政治という言葉ですぐ思い出すのは、クリームの「ポリティシャン」なのだから俺は政治に興味はない。だけれども興味がなくても、この国に暮らしている以上、政治の影響は大きく受ける。俺自身は教育の無償化に力を入れて欲しい。現状では我が家の台所事情は大変厳しく、後十年ぐらいは教育資金のやりくりで、頭の痛い毎日を送らなければならない。まあそれはそれとして、今回の選挙の争点になっているのは、どうやら改憲派と護憲はとの争いと、脱原発を掲げる希望の党へのスタンス、野党の乱立、与党の不祥事の尻拭い。など。

結局のところ政治家は選挙に受からないと失業するわけだから、政治信条よりも選挙に勝つことが重要になるのじゃないのだだろうか。でも当然それじゃあだれも信用しなくなる。彼らは頭がいいし、頭がいい人がまわりにいっぱいいるはず。いろんな言葉を並べ立てて、白を黒に黒を白にすることができる。俺はいろんなニュースを見るにつれ、水面下で行われてる駆け引きや談合などいわゆる政治というものが、おそろしく面倒なものに見える。

俺には政治的信条はあんまりなく、良くも悪くも振り回されるだけだし、でもちゃんと選挙には行っている。選挙に行かなかったら、政治家のことバカだっていえないじゃん。何もかももうれつなスピードで変化していく現代で、そのスピードで走り続けたら、俺なんか簡単に死んでしまう。変わらないことも、変わることの一部であるなんて、訳知り顔で言ってみたい。

政治も戦いだ。言葉の戦争だ。俺はインデュラインのような明るさで、未来を見据えてほしい。

 

生きている

マーク・ボランは自分は三十まで生きられないだろうと言って、三十の誕生日の少し前に、交通事故で死んだ。ジャニスもジム・モリスンもジョンもフレディも若くして死んでしまった。早逝のロックスターばかり追いかけていたから、自分もなんとなく四十ぐらいで死ぬような気がしていた。

どっこい四十六になった今でも、生きていて、普通に仕事していて、嫁がいて、子供が二人いて、子供の教育資金で、切羽詰まっていて、一軒家に住んでいて、ロックスターとはかけ離れたまともな暮らしぶりだ。

俺の予定と違うから、毎日が戸惑ってばかりで、意外と俺は常識人なのかもしれない。と思うこともある。

家族というのは不思議なもので、こんなわがままで、無責任なおっさんでも、やっぱりちゃんとせなあかんのかなと思わせる何か、世の中との折り合いのような、不安定な足場の上にイヤイヤ毎日立たされて、あんまりしゃべると、敵ばっかり作るから、出来るだけ黙っている。

生きることも仕事の一部のような気がして、ロクでもない鎖で縛られているような閉塞感があって、もう少しお金がないと、自由になれないのよね、たぶん…

この前も書いたけど、生きていること自体は嫌じゃないのよ。生きてて良かったと思う夜が、数年に一回あるから、その一回を楽しみに明日もかろうじて、社会にしがみつくのだろう。

light my fireとドアーズは歌ったけれど、私の火って何だろうって、最近思って、私自身を燃やすのか、私の中の魂を燃やすのか、それとも全く別の何かなのか…

長生きしてしまった分愚痴も多くなったよ。申し訳ない。しばらく付き合っておくれよ。

マシンガン

ラスベガスで銃乱射があって、50人以上が亡くなった。ラスベガスのあるネバダ州は比較的容易にマシンガンが手に入ると、町山さんは言っていて、狙撃者のいたホテルの部屋には数十丁ものマシンガンと数千発の弾丸があった。

そのうち犯人の詳細がわかり、社会との関連づけがおこなわれ、頭のいい人が原因のようなもの、これからの対策のようなものを話すのだろう。でもアメリカは銃規制しないだろう。アメリという国にもしアイデンティティがあるとすれば、それは武装闘争で本国イギリスから独立した原体験によるものだ。

今のアメリカの移民の大半はそういうのとは関係なく、もってなければもってるやつに勝てない、そして大半がもっているから、自分も必要だということなのだと思う。北朝鮮と同じようなことだ。

簡単に手にはいるからと言って、これちょうだい、はいわかりました、と言うほどマシンガンは簡単には買えない。銃乱射の犯人の精神状態がいったいどんなだったか、知りたいものだ。

銃という道具は人を殺すためだけの道具だ。そして人類の歴史は戦争の歴史だ。口喧嘩では生き残れないのだ。こんな文章を何万と書いても、一発の銃弾で僕は死んでしまう。だから・・・・・・

世の中のエリート養成システムが人間性を排除している。個性を埋没化させ、普通であることを強要される。誰も普通ではない。

とにかく日本に銃刀法があってよかった。でなければ俺は誰かを殺していたか、誰かに殺されてたか、生きていくことに疑問を抱いて、くわえていただろう。

何を着る?

生まれてこの方お洒落であったことは一度もなく、何となくお洒落であることが気恥ずかしい、ええかっこしいが苦手なおじさんである。だから生まれてこの方着る服に頓着したこともあんまりなく、破れてなくて、洗濯してあって、暖かければ何でもいい、といったような服の着かたをしていたのだけれど、それじゃあええ大人としていろんなところで信用をなくし、子供も真似して服に無頓着になっていじめにあったら可哀想だし、そういったことで、しょうがなく最近はジャケットを愛用している。長年愛用していたジーンズもなるべく着ないようにして、綿パンを履くようにしている。

ジャケットも古着屋で安いのを買ってきて、まあなんとか格好良くはないけれど、それなりに見えるように気を使っている。今朝は肌寒くジャケットの下に着るフリースを間違えた。服に詳しくないのでうまく説明できないが、青と白で雪の結晶みたいな模様のフリースでたぶんユニクロで買った記憶がある。上のジャケットは茶色のスエードなので着てておかしいと思うんだけれど、暖かさで言えばこれが一番いまの季節にあっていて、コーディネイトなんて生まれてこの方考えたこともなかったから、エンジ色のタートルネックか何かがいいのかしらと思って、明日にでも買おうかなんて思ったりしている。

見た目というのにあまり関心がないので、もうそれは生まれつきで、どうしてこんなになったのだろうか。まあいいか。顔は悪くないと思う。制服着てるときは比較的モテる。だから私服がペケなんんだろう。

中身はパンクスなので年中革パンでスタッツのたくさん付いたライダースを着ていたいのだけれど、それだと大人としてやっぱり世間から大きくはみ出してしまうので、子供たちのことを考えると、サソリのタトゥーなんか入れてしまうと、やっぱまずいことになるのかなと悩むおっちゃんです。

希望

今週のお題「読書の秋」

``俺が目が悪くなってから読んだ本は一冊だけ。タイトルがちゃんと思い出せない。「絶望辞典」といったような本だったが、検索してもでてこないのでたぶん、間違っているのだろう。

古今東西著名人の絶望、弱音を集めた言葉で、とても癒された記憶がある。そういう著名人でも弱気になって絶望の言葉を綴るというのは大変、読む方にとっては心強い。

僕はいつもゴッホ宮沢賢治を思い出すのだ。才能という意味では僕なんかが、口に出すのも恥ずかしいのだけれど、ゴッホの絵と宮沢賢治の詩は、時にどうしようもないぐらい、絶望に満ちて、またそれだからこそ希望を求めて、すばらしい作品を残してもいるのだ。

ちゃんと目が見えるようだったら、ゴッホとテオの書簡を読んでみたいものだ。絶望した人々は結果自殺する。それは理屈は通っている。生きていくことに価値を見いだせないことが絶望というのだから。

漱石草枕でこの世は住みにくいといっているが、どこに行っても住みにくいのに変わりはないし、この住みにくい世の中を少しでも和らげてくれるのは、詩と絵画だといっている。彫刻と歌だと言っている。

日本の自殺率は18位、韓国はもう少し上で一桁台だった。旧社会主義国が上位に来ている。競争社会で生き抜けなかった人々や、社会主義国のように監視社会で互いにだれも信用できない用になると、死にたくもなるのだろう。

また宗教的に自殺が禁じられている国は、順位が低い。

生きていてどうやねん。楽しい?幸せ?もしくはその二つでないとあかんのか。普通よりもちょっと下やけど、死ぬほどでもない、みたいな選択肢だってある。

高校の時にらもさんの「僕の踏まれた町」を図書室で読んだ。「苦しいことも多いけど、生きててよかったと思うことが時々ある。だからとりあえず明日にたどり着こうと思う」みたいなことが書いてあった。

最近は生きててよかったと思うことが少なくなった。それは俺の心がまだ闘病中だからだろう。もう数年したら、突き抜けるかもしれない。負けてしまうかもしれない。とにかく大事なのは明日に着地することだ。不時着でもいい。ケガだらけでもいいから、とにかく明日にたどり着く。そこから先はまあ、ね。ドアーズ聞くなり、モネを見るなり何なりと・・・・・・。

日本語

アタシは詩人で死人ではなく

アナタを愛したこともある

アシタになれば真下のアルゼンチンから

アナタが興奮してやってきて

アタシはアミダにアタッタように

足元から崩れ落ち

諦めきれず、堪えきれず、泣いて

アタマから水をかぶったように

アイソをつかすかも

アジアにはめもくれず

アナタに会いたい

アタリマエのことだから

アンマリ言ったりしないから

敢えてアナタに

アリガトウ

消えた原稿

消えた原稿などと書くと、なんだかミステリの出来損ないみたいで、恐縮だけど、このあいだ保存せずに消した原稿のことを少し書こう。

NHKドキュメンタリーの「江夏の21球」を見た。それで思ったことを600字ぐらいで書いたのだが、なくしてしまった。印象は強烈で三日たった今日も少し考えていた。江夏のこと、江夏の生きた時代の野球、子供時代。

あらためて今日思ったのは江夏の男気のことだ。男気があるということは、同時に繊細であるということだ。プライドが高く傷つきやすい。天才というのは調和という点に置いては、全く才能がない。逆に調和できるようでは凡人であるということだ。

野村克也の解説で丁寧に一球ずつ説明する。江夏はテレビ局でタバコを吸いながらパンチパーマで、革ジャンでインタビューを受けている。衣笠、古葉監督、西本監督、佐々木、石渡、いろんな人が出てきた。俺と同じ年代の人間は懐かしいだろう。大阪球場。1979年。

一点差、負けている場面でノーアウト満塁で一点も入らなかった。そのまま広島が日本一になった。いろんなミスと偶然が折り重なってそうなった。それは必然でもある。

消えた原稿などと書くと、名文を書いたような、偉そうなタイトルだが、俺は江夏にシンパシーを感じて、愛情を感じて、それを表現したくて書いたのだ。

あのスクイズを外したボールが意図されたものだったかどうかは知らない。江夏は「自分でやったからって分けじゃないけど、神業やね」とインタビューで答えていた。

神の技を持つものは天才で、天才はやはり異形の輝きを放つのだと思う。